いえなかった言葉 |
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<1> 孫尚香から関平へ 「あっ――」 突然、手のひらを走った鋭い痛みに、孫尚香は小さく悲鳴をあげた。 「どうなさいました?」 後ろを歩いていた関平が、駆け寄ってくる。 「いえ、大丈夫。何でもありません」 あわててかぶりを振ったが、関平は納得してくれない。 「見せてごらんなさい」 有無を言わせぬ強い口調で、若者の大きな手が尚香の右手を掴む。開いた手のひらには、一本の赤い線が浮かび、うっすらと血が滲んでいた。 「葦の葉で切られましたね。痛いでしょう?」 「本当に大丈夫よ。もう何ともないわ」 「いけません、放っておいては。膿んだりしたら後が大変です」 言うなり、関平は尚香の手のひらに自分の唇を押しあてた。 「……!」 驚いて手を引っ込めようとするが、関平はそれを許さない。かれの唇が触れているその一箇所に向かって、自分の五感のすべてが集中し、神経が高ぶっていくのを感じる。 やがて、温かく湿った舌が、傷口を丁寧に舐め清め始めた。ぞくり、と背筋が震える。手のひらから体の奥深くへと広がっていく熱い感触に、尚香は思わずめまいを覚えた。 どれほどの時間だったのだろう。永遠とも思えるような永い沈黙。だが実際には、ほんの一呼吸の間だったかもしれない。 尚香の手のひらから顔を上げた関平は、常と変わらぬ穏やかな表情で言った。 「急場しのぎですが、これで大丈夫でしょう。城へ戻られたら、きちんと手当てし直されますよう」 ほんの少し――。肩透かしをくわされたような気がして、尚香はわざとそっけなく横を向いた。 「ありがとう」 「不躾なことをいたしました。お許しください」 律儀に頭を下げる関平をそこに残して、尚香は足早にその場を立ち去った。 (私は、こんなに緊張しているのに――) 胸が苦しい。心臓がドクンドクンと音をたてている。 右の手のひらを、そっと自分の唇にあててみる。白い手は、自分のものではないように、小刻みに震えていた。 ・・・・・・・・・・ 荊州にいた時、偶然に幾度かあった逢瀬。いや、逢瀬などという言葉はふさわしくあるまい。何を話すでもない。ただ、二人して、空を見上げるだけの時間。 それでも、その男の横に立って、同じ空気を吸っていることが、いつしか尚香にとって無上の喜びになっていた。 荊州を領有する劉備と、呉を統べる孫権の妹尚香との婚姻は、世に言う政略結婚である。 尚香の立場は、妻というよりあるいは質に近いものだったかもしれないが、劉備は決してそんなそぶりは見せなかった。世間知らずの年若い花嫁に対して、精一杯の大人の愛情をそそいでくれた。 閨でも、劉備は優しかった。まるでこわれものでも扱うかのように、尚香を気遣ってくれる。広い懐の中にすっぽりと包まれていると、心の底から湧き上がってくる安らぎに全身が浸されていくようで、いつしか尚香は、劉備の中に顔も定かには覚えていない父 孫堅を思い描いていた。 けれど。 劉備の抱擁は、尚香を懐かしい温もりで満たしてはくれたが、目くるめくような情熱で焦がしてはくれなかった。 ――もっと、激しく愛されたい! 関平に口づけられた手のひらの傷痕が、熱くうずく。 その夜、いつものように劉備の胸に抱かれながら、初めて父親以外の男の面影を思い浮かべている自分に、尚香は愕然とした。 ――ああ、私は玄徳さまを裏切っている……。 それからしばらくして、劉備は蜀遠征の途に発った。主だった武将たちとともに関平も従軍し、尚香はひとり荊州に残された。 「玄徳さまもいない。関平さんもいない。この国で、私はひとりぼっちだわ――」 もはや一緒に空を見上げてくれるひともいない。 長江の流れにいくら目をこらしたとて、呉も蜀も見えはしない。 やがて、以前からくすぶっていた荊州の領有問題をめぐって、劉備と孫権の関係はますます悪化していった。そしてついに、尚香を呉に呼び戻す使者が送られてきたのだった。 表向きは、病の篤い母 呉国太を見舞いに帰るという名目で。しかし、今呉に赴けば、もう二度とこの地に戻ってはこれないと、尚香にはわかっていた。 それでも、行かねばなるまい。 家のため、国のため、我が身を道具として捧げることが、戦国乱世に生まれた女子の宿命ならば。 (劉備玄徳の妻であるより先に、私は孫家の娘なのだ) それが兄の意志であるというなら、従うよりほかにない。 呉へと向かう船の上で、見慣れた景色が遠ざかるのを眺めながら、尚香は泣いた。 ――私の心はあくまでも、ここ荊州に。……さまの傍らに置いておきたい。 (え……?) 劉備の名前を呟こうとしたはず。 それなのに。 尚香の胸の奥にあざやかに浮かんだのは、関平の笑顔だった。 ・・・・・・・・・・ 今も時折、夢に見る。 荊州の地で眺めた空の色。 そして、傍らにいてくれた男の笑顔――。 もう遠い過去の記憶なのに、あの日のときめき、胸の鼓動は、昨日のことのように覚えている。 右の手のひらには、男の唇の感触が今も消えずに残っていた。 ――あれが、私の、たった一度の恋だったのだろうか。 関平の夢を見た夜は、いつも自分のすすり泣く声で目が覚める。 いえなかった言葉が、胸の底から湧き上がり、涙となってあふれ落ちた。 <2> 関平から孫尚香へ 地下牢の湿った土の上で、関平は目を開いた。 石積みの壁の隙間、わずかに開いた窓から差し込む月明かりに、今が夜だと知れる。 身を起こそうとして、激痛が走った。 「う……」 ようやく上半身を支え起こした腕の下で、手枷の鎖が鈍い音を立てた。 右肩と背中に深手を負っているらしい。傷口から流れた血が床に広がり、乾いて、黒い染みを作っていた。 (そうだ。父上……父上は?) 敵兵に囲まれた関羽を助けようとして、駆け寄ったところまでは覚えている。あっと思ったときは、馬が足を折っていた。鞍から投げ出されたところを、周囲から網を投げられて身動きが取れなくなり、絡めとられた。 そのまま縛り上げられてこの城砦に運ばれ、牢に放り込まれてから幾日たったのか。 (――父上はご無事だろうか?) あれしきのことで、父が死ぬとは思えなかった。 無事に死地を脱したか。あるいは自分と同じように捕われて、別の場所に繋がれているのだろうか。 ここにいたるまでの悪夢のような出来事を思い出し、関平は唇をかみ締めた。 荊州を守っていた関羽父子は、魏の曹仁を樊城に囲み、落城も間近かと思われた。だが、密かに魏と呉が手を結んでいようとは。孫権に背後をつかれ、江陵を落とされては、いかに軍神関羽といえども、敗走するしかなかったのだ。 ぼんやりと視線を遊ばせていた先に、ふいにぼうっと灯りがさし、誰かが近づいてくる気配を察して、関平の五体は緊張した。 松明を手に、狭い石段を降りてくる人影がひとつ。 ようやく顔を見分けられる距離まで近づいたとき、思いもかけない人物の姿を見出して、関平は驚きの声をあげた。 「尚香さま――?」 眉宇をひそめ、今にも泣き出しそうな顔で立っているのは、かつて劉備の妻として荊州にあった呉国の姫、孫尚香だった。 十年ぶりであろうか。少女の幼さときかん気の強さは影を潜め、成熟した女性の顔がそこにあった。 「傷を負っているのですね?」 「ご心配には及びません。ほんの浅手です」 「だめよ。ちゃんと見せて」 尚香は、牢の鍵を開けると、すばやく中に滑り込んできた。 力なく壁にもたれかかっている関平に駆け寄り、着物を脱がせた尚香は、松明の灯りに浮かび上がった無残な傷に、小さな悲鳴を上げた。 「ひどい怪我じゃないの!」 「本当に、大丈夫ですから」 「待っていて。すぐに薬を持ってきます。……怪我人をこんなところに放り込んで、手当てもせずに放っておくなんて、ひどい」 あわてて出て行こうとする尚香の裾に、関平がしがみついた。 「尚香さまっ。父上の、父上の消息をご存じありませんか」 「関羽将軍も、この城砦に捕われていると聞きましたが」 「では、父上はご無事なんですね?」 関羽が生きていると聞いて、関平の頬に生気が戻った。その様子を見ていた尚香は、関平の方に向き直ると、声音を改めた。 「でも、このままでは、いずれあなたもお父上も殺されます」 「覚悟の上です」 「いいえ!――関平さん。私は、あなたにも、関羽将軍にも、こんなところで死んでほしくないのです」 なぜ、敵国の姫がこんなにも必死になって自分の身を案じてくれるのか。関平には分からなかった。 「私は……ここで、父上とともに死ねるのであれば、天に感謝したいと思っているのです。本当に、ようやっと……名実ともに関羽の息子として死ねるのですから」 「関羽将軍は、それでご満足でしょう。玄徳さまに託された荊州とともに滅びるのであれば。でも、あなたは――」 尚香の双眸に涙があふれる。 「あなたには、もっと違う未来があったはず。このようなところで、こんな形で終わるのではなく……」 「尚香さま?」 「あの日、私に話してくれたではありませんか。世の中が平和になったら、と。いつか、もし……と」 いつしか尚香は、関平の胸にすがり、声にならない鳴咽をもらしていた。 自分の腕の中でふるえている細い肩。そっと抱きしめれば、温かくやわらかい。 関平は、夢を見ているのではないかと思った。 夢でもいい。 いっそこのまま、時がとまってくれたら……。 己が胸の高鳴りが、そのまま相手に伝わったのだろうか。顔を上げた尚香のまなざしは、熱く燃えていた。涙に濡れた眸子が、苦しいほどに関平を追い詰める。 「関平さん。私は……あなたを、あなたのことを――」 「尚香さま、いけません!」 関平の凛とした声が尚香の言葉をさえぎった。 「いけません。それ以上おっしゃっては」 「………」 「あなたさまは、今も我が君 劉備玄徳公の奥方にあらせられます。それ以上の想いを、私に抱かせてくださいますな」 関平は、わざと冷たく尚香の身体を引き離した。 「さ、早く。誰にも見つからぬうちに、ここをお立ち去りください。そして、今宵のことは、幻と思って忘れてくだされ」 関平の毅然とした態度は、尚香にそれ以上の甘えを許さなかった。 やがて、尚香は、断ち切りがたい想いを残したまま、その場を去っていった。 にわかに月の光が陰ったかと思うと、石壁の隙間から雪が舞い込んできた。白く冷たい雪片は、まるで夏の夜の蛍のように、置き捨てられた関平のまわりを飛び交う。 長江のほとりで、尚香と並んで見た蛍。まるで恋人同士のように、肩を寄せ合って過ごした夜の、甘美な記憶の残片。 そして、何時間も、ただ黙って、二人して眺めた空の色。 幸福な思い出の場面には、いつも彼のひとの微笑みがあった。 ――荊州での日々、私もまた心の中では、主君玄徳さまを裏切っていたのです。 決して、触れてはならぬひと。 あの日、こらえきれずにその白い手に口づけてしまったことに、ずっと関平は罪の意識を抱いていたのだった。 (尚香さま。あなたさまのお気持ち、決して忘れません。私に寄せてくださったあなたの思いも、そして私があなたに抱いた思いも、ともにこの心の底に大切に沈めて、あの世まで持っていきましょう) これで、思い残すことなく旅立てます。 わが生涯で、ただ一度の恋でした。尚香さま……。 ・・・・・・・・・・ それから間もなく、関平は、父関羽とともに臨沮で首を斬られ、三十五年の生涯を閉じる。 軍神関羽の息子の名に恥じぬ、見事な最期であった。 |
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2006/11/10 |
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