いにしえ夢語り蜀錦の庭言の葉つづり


 



陽春、漢中。
春たけなわとはいえ、夜になれば思いのほか冷え込む。
たまりにたまった雑務を片付け、丞相府を出た姜維が私邸に着く頃には、すでに真夜中をまわっていた。
もう就寝しているであろう家人を気遣い、そっと裏木戸から奥へ回ろうとすると、寝室にはまだ灯りがともっている。
そっとのぞくと、妻が手燭の下で、年若い下女を相手に繕いものに精を出していた。
「香蓮、まだ起きていたのか?」
「だんなさま――」
お帰りなさいませ、と微笑む妻の顔が、火灯りに照らされて美しい。
「あまり無理をするな。体を壊したら何にもならぬ」
「お気遣い恐れ入ります。でも、私、子どもの頃から体だけは丈夫でしたから」
ふふふ、と含み笑いをしながら、手早く着物を片付けると、香蓮は下女に酒肴の用意を命じた。


やがて、ささやかな酒肴が運ばれてきた。夫婦二人だけの静かな宴である。
互いに杯に酒を注ぎ合い、一気に飲み干す。
「伯約さまの方こそお疲れでしょう?」
「私が?」
「毎晩遅くまでお仕事ばっかり。ほんとに孔明先生ったら、人使いが荒すぎます」
香蓮の目蓋が、ほんのり赤く染まっている。
「今宵はまだ早く片付いたほうだ。だからこうして、そなたと酒を飲むことができる」
姜維は笑いながら、空になった妻の杯に酒を注いでやった。
確かに、こうして二人で酒を酌み交わすなど、何ヶ月ぶりだろう。
倦むことなく繰り返されてきた北伐が、しばらくの間沙汰止みとなり、漢中は今、束の間の平穏の中にある。
それでも、丞相諸葛孔明の右腕たる姜維には、やらねばならぬことが多すぎた。特にここ数週間は、丞相府で夜を明かすこともしばしばだったから、新婚の妻の顔をゆっくりと眺める暇さえなかったのである。
姜維には、師である孔明の思いが手に取るように分かっていた。
執拗に繰り返される北伐。だが、思ったような戦果を挙げることができない。しかも、厳重に秘されてはいたが、孔明はこのときすでに重篤な病に冒されていたのだ。
蜀の未来と己が命を見据えた師の悲愴なる決意を思うとき、姜維はやりきれなさに胸が張り裂けそうになる。
果たして、自分に何ができるのか。
私の魂魄のすべてをもって、孔明先生のために何をなすべきなのか、と。


「だんなさま。笛を聞かせてくださいませんか」
香蓮に乞われて、姜維は、日頃愛奏している一管を取り出した。
奏ずるほどに、胸の疼きは大きくなっていく。姜維は、香蓮があきれるほどの激しさで、情のほとばしるまま笛を奏し続けた。
やがて、酔いと睡魔に耐え切れなくなって卓に突っ伏した香蓮が、小さな寝息を立て始めた。
(気丈なことを言っていても、やはり、疲れていたのだな)
姜維は、そっと妻の体を抱き上げると、寝床に横たえてやった。
ほんのり上気した頬に、乱れた髪が艶かしい陰影を投げている。起きているときの凛とした彼女からは想像できない『女』の表情だった。
しばしその寝顔に見とれ、姜維はそっと妻の頬に唇を寄せた。肌理(きめ)細やかで吸い付くような肌。
香蓮の横顔は、突然姜維の脳裏に懐かしい面影を思い起こさせた。
天水の母、である。

――思えば、私は母上の寝顔というものを見たことがないな……。

姜維がどんなに早起きをしても、あるいは勉学のために夜更かしをしていても、母はいつも起きて息子を見守っていた。
女というものは、大切な男を見守るためなら、眠ることさえ我慢できるのだろうか。
母にとって、自分がよき息子だったとは思わない。
(己の信ずる道を生きてきた、という自負はある。だがそれは、結局は母上を泣かせることになってしまった)
姜維は唇を噛んだ。
「香蓮……」
小さく、妻の名を呼んでみる。
「そなただけは、決して泣かすようなことはしない。約束するよ」


願わくば、妻のこの束の間の眠りが安らかなものでありますように。
そして、丞相の大志がいつの日か天に届きますように。
空気までもがどこか艶めいているような、春の闇の中に姜維はひとり、籠るような思いでいる。




2009/5/5