邂 逅
いつか…また…めぐり会える日


「旦那!ホーキンスの旦那」
西インド諸島のとある港町で、ジム・ホーキンスは、思いがけない男の名前を聞いた。
(え――?)
「シルバーのことを知っている海賊?ここにいるのか?」
「へえ。旦那がいつもおっしゃってましたからね。一本足の海賊のことを耳にしたら知らせてくれって」
ジムに声をかけたのは、痩せこけて、もう腰の曲がりかけた老水夫だったが、彼は、その下卑た顔つきに覚えがあった。
その男の話では、先日この近くでイギリス海軍と海賊船がやりあって、大勢の海賊が捕らえられた。その頭目が、シルバーのことを知っているのだという。今、彼らは、この町の牢獄で、本国からの護送船を待っているらしい。
「ありがとう。これは少ないがお礼だ」
「へえっ、こりゃどうも」
ジムが3枚の銀貨を渡すと、男は曲がった腰をいっそう低くした。
(シルバー……)
その響きを聞くだけで、ジムの胸の中には、渦巻くように高鳴ってくる感情があった。

――何年ぶりに聞く名前だろう。お前は今、どうしているんだ――?

                    

次の日、ジムは夜の明けるのを待ちかねて、その海賊の頭目を訪ねた。
友人のリブシーの顔で、囚人に面会するくらいは造作もなかったが、牢番には袖の下をはずまねばならなかった。
「許可は取ってあるんだ。しばらくはずしてくれないか」
牢の中は、じっとりとして薄暗い。天井に近いところに小さく開けられた窓から朝の光が差し込み、そのぼんやりとした逆光が、ひとりの人物の影を浮かび上がらせていた。
相手の輪郭がはっきりと形を持ったとき、ジムは思わず声を上げそうになり、慌ててそれを飲み込んだ。
(――女?)
光の中に所在なさげにすわっているのは、腰までの金髪をけぶらせた女だった。
気配に振り向いた女の目は、入り口に立っているジムの姿を認めたが、その顔には何の感情も表れていない。心はここにはなく、寂しげなアイスブルーの眸子は、はるか遠くを見ているかのようだ。
思いのほか相手の美しさにとまどいながら、ジムは万感の思いを込めてその男の名前を口にした。
「シルバーの話を聞かせてくれないか」
「――シルバー? あ、あんた、シルバーを知ってるのかいっ?」
突然、女の顔に感情が戻った。
美しい顔がゆがんでいる。突き刺すような視線がジムをとらえている。それだけで、この女の中にあるシルバーへの思いが伝わってくるような気がした。
おそらく彼女は、ジム以上にシルバーを求め、追い続けてきたのだろう。
「本国に送られりゃ、たぶん縛り首だ。その前にもう一度だけ、あのひとに会いたかったよ……」
「よかったら、あんたの知ってるシルバーのことを、俺に話してくれないか」
「あんたは……?」
「俺もたぶん同じなんだ。もう一度、奴に会いたいと思ってる」
言いながら、ジムは不覚にも涙がこぼれそうになった。

なぜ、これほどまでにあの男に心惹かれるのか。忘れようとして忘れられない宝島への冒険から、すでに十五年が過ぎているというのに。
夢と憧れしか知らなかった十三歳の少年に、現実の残酷さとはかなさを教え、さんざん引っ張りまわしたあげく、さよならも言わずに消えてしまった男――。

ジムの沈黙を引き取るようにして、女(エリスという名前だった)はぽつりぽつりと語り始めた。
彼女の父親は、ウェールズでも指折りの資産家だった。幼い頃に母親を亡くした娘の寂しさをなぐさめるために、父は自分の船に彼女を乗せて、あちこちを旅してまわったのだという。
「あのひと――シルバーは、その船のコックだった」
エリスは遠い目をした。
「ほかの船員たちは、船主の娘であるあたしにやたらとチヤホヤしたけど、シルバーだけはちっとも気にもかけてくれないんだ。それが悔しくって、いろいろ困らせたっけ。ずいぶんひどいことも言ったよ。だけどあのひとは、いつも笑ってた。それがまた気にいらなくて……。こっちを見てほしかったんだね」
――子どもだったのさ、と自嘲するように微笑んだ口元に、ジムは、自分の中の苦い思いを重ねずにはいられなかった。
(そうだ。俺も子どもだった。シルバーの中の哀しみや苦しみに気づこうともせず、ただ奴のかっこよさに憧れて、ジャラジャラとまとわりつていただけなんだ。それでも奴は、俺のことを一人前の男として扱ってくれたのに、俺ときたら……。裏切り者だの、人殺しだの、あいつの心の痛みなんて考えもしないで)

――今なら……。

今なら、シルバーの生き方を分かってやれる。尊敬し、憧れて、大好きだった海の男ジョン・シルバーと、泣く子も黙る一本足の海賊ロング・ジョンを、ひとりの男として理解できる。
十五年前、お前がほんの行きずりに出会った少年は、それ以来ずっとお前の影を追い続けて、今やっと対等に向き合える男になった。あんたに導かれてここまで来たんだ。そのことを、彼に伝えたい――。

エリスは、ジムにというよりも、自分の胸に刻み込むように、言葉を重ねた。
「港から港をめぐる船の上で、あのひとはあたしにいろんなことを教えてくれたよ。優しい凪や猛々しい嵐――海は生きものなんだって。行ったことのない遠い異国。南の島のエメラルド色した海。鯨の唄声。海のこと、船乗りたちのこと、それに料理のこともね。あたしは、あのひとが話してくれる世界に夢中だった……」
そしていつしか、その世界に生きているジョン・シルバーという男そのものに夢中になった。
海賊船に襲われたとき、大しけの海を乗り切ったとき、船長よりも勇敢に皆を指揮し、操舵手よりも巧みに船を操った一本足の男。それは、十六歳の少女が、初めて父親以外の男に抱いた激しい感情だった。
だが、旅はいつか終わる。
何度目かの航海を終えて、船がなつかしい故郷の港に戻ってきたとき、シルバーは突然、解雇を言い渡された。娘の思いに気づいた父親が引き離したのだ。
シルバーは、あっさりとしたものだった。それまでの給金を受け取ると、夜のうちに、黙って船から姿を消した。
「あたしには、ひとことも言ってくれなかった。あのひとにとって、あたしはそれだけの――そう、取るに足りない存在だったんだろうね。まだ暗い港を走って走って、あちこち探して……。町外れの浜辺でやっと見つけたあの人にすがって、あたしは見栄も誇りも何もかも捨てて泣いちまった――」

                    

「さよならも言わないで行ってしまうのね」
「やれやれ、見つかっちまったか」
男の目が、もういつものように笑ってはいないことに、エリスはまだ気づかない。男の腕を握り締めた手がふるえ、体中の力をふりしぼるようにして彼女は叫んだ。
「シルバー、お願い。私も連れていって!」
「お嬢さん、俺はお前さんが思ってくれてるほど立派な男じゃねえ」
今までエリスが聞いたこともないような冷酷な声だった。
「俺は、海賊なんだ」
「――うそ」
「うそじゃねえ!フリントの子分で一本足のジョン・シルバーといえば、海賊仲間でもちっとは知られた顔なんだぜ」
「そんな……そんなこと」
エリスの体から血が引いた。思いもしなかった男の言葉に(拒絶というならこれ以上の拒絶はあるまい)打ちのめされ、彼女は次の言葉をさがすことすらできずに立ち尽くしていた。
「たまには堅気の暮らしもいいもんだが、あんまり長いと体がなまっちまう。ちょうどいい潮時だと思ってたんだ」
シルバーがエリスの手を振りほどこうとしたそのとき、顔を上げた彼女の口から、堰を切ったように男への慕情がほとばしり出た。
「……いい。あなたが海賊でも、人殺しでも――」
「なに――?」
「いいの!私もう、あなたと離れては生きていけない。だから、だから……お願い。いっしょに連れていって!」
今度は、シルバーが呆然とする番だった。

――何をばかな……。

「世間知らずのお嬢さんの世迷いごとにつきあっていられるほど、俺は暇じゃねえんだ!」
シルバーは、自分でも訳の分からない腹立たしさに、思わず声を荒げた。
(海賊でも人殺しでもかまわねえだと。いっしょに連れていってくれだと。――冗談じゃねえ!俺が今日までどんな思いで生きてきたか、お前に分かるっていうのか?)
「お嬢さん。俺には、帰りを待ってる女房がいるんだ。美人で、気立てがよくて、いつまでも待ってくれている……優しい女だ」
「シルバー!」
「俺とあんたとじゃ、生きてる世界が違いすぎる。もっと自分にふさわしい男を見つけるんだな」
それが、エリスとシルバーの別れだった。
置き捨てられた子猫のように、エリスは声を上げて泣いた。

                    

「それで――?」
「それっきり、さ」
ジムは、その思い出の哀しさに胸が痛んだが、エリスの眸子は思いのほか明るかった。まっすぐに自分を見つめている澄んだ光に、彼女が踏み越えてきた道の遠さが見えるようだった。
「なんで海賊なんかになったんだ?」
「なんでだろうね……」
シルバーが消えた後の絶望からなんとか這い上がれるまで――。気の遠くなるような時間だった。
時が経てば薄れると思った哀しみは、日を重ねるごとに深くなる。見たこともない男の妻に対する嫉妬が、業火となってエリスの胸を焼く。その苦しみから逃れるために、我と我が身をさいなみ、心を凍らせていった。
そうして、端正な顔から少女のはかなさが消えたとき、エリスはブロンドの髪をたばね、ドレスを脱ぎ、女であることをも捨てたのだった。
いつしかその白い手は、血に染まっていった。
「――シルバーにふさわしい女になりたかったんだ」
「え?」
「シルバーがあたしにふさわしくないっていうんなら、あたしがあいつにふさわしい女になってやるってね。もう意地だったよ。それに――海にいさえすれば、またいつかあいつに会えるかもしれないじゃないか……」
昔、シルバーの背中は海の匂いがした。今、エリスの長い髪には、潮の香りが染みついている。
「もし、もう一度あのひとに会うことができたら、今のあたしを見てどんな顔をするだろうね」
あのひとは驚くだろうか。それとも馬鹿な女だと笑うだろうか。
俺にふさわしい女になったとまで言ってもらえなくてもいい。ひとりの女として、認めてさえくれたら――。
そこまできて、彼女の思考はぷつりと途切れた。
もう生きてふたたび、ジョン・シルバーに会うことはないのだ。
「あたしはたぶん、もう会えないけど……。いつかシルバーに出会ったら、あたしのこと伝えて。あいつったら、薄情な奴だから、覚えてないかもしれないけどさ。あんたのこと、いつまでも追いかけてたエリスって女がいたって。追いかけて、追いかけて、追いかけ続けて、海の風になっちまったってね――」

                    

エリスと別れ、南国のまぶしい日差しを浴びて港に続く道を歩きながら、ジムの心はとめどなく哀しかった。

――海にいさえすれば、またいつか会えるかもしれないじゃないか……。

エリスの言葉が、くさびのように頭のどこかに打ち込まれている。
そうだ。自分が未だに海を離れられないのも、愛する妻や子どもたちを陸に残して、決して安全とはいえない航海を続けているのも、ただ海が好きだからというそれだけの理由ではない。
心の奥底に、いつも澱(おり)のように溜まっているどこか暗いこだわりが、彼を海に捉えて放さないのだ。そのこだわりの根底にあるのが、ジョン・シルバーの存在だった。
「俺も信じている。海に出ていれば、きっとどこかで、懐かしいあの男に会える日がくると。だから――」

だから、その日まで、俺は『宝島のジム』でいたいんだ!
十三歳の少年の日、冒険への期待と憧れで世界中が輝いていたあの日、心の底からシルバーを敬愛し、そして憎んだ懐かしい日々……。

ジムはいつしか港への道をはずれ、岬に続く高台を歩いていた。
岬の上にはカモメが舞っている。海は紺碧に輝き、空はどこまでも青い。海と空が溶けあう水平線のかなたに、求めてやまない男の面影が浮かんだ。
(ジョン・シルバー――。いったいお前は、何人の心の中で、今も変わらずに生き続けているんだろう? どれほどの人間が、あの日のお前を今日も追い続けているんだろう? 俺もたぶん、死ぬまでお前の呪縛から逃れられないんだろうな……)
邂逅――。いつかまためぐり会える日。
その日が本当に訪れるのかどうか、それはジムにも分からない。
彫像のように、いつまでも岬の上に立ち尽くす彼の影をかすめて、カモメが低く飛んだ。

――了

【あとがき】
大昔に、友人が作っていた「宝島」の身内ファン会誌に載せた作品です。もう10年以上も前に書いたものですが、ほとんど修正していません。あの頃の、少々未熟ではあっても、まっすぐな「宝島」への情熱を、そのまま伝えたいと思うから。
当時、すでに「宝島」の放映から10数年が経っていました。シルバーやジムと過ごした「宝島」への旅は、いつまでも忘れられない思い出でしたが……。否応なしに時間は過ぎ去り、好むと好まざるとにかかわらず現実の中に身を置きながら、いつしか「宝島」とは無縁の世界で生きている私。
でも、それは、ただそういうフリをしているだけなのかもしれません。目を閉じれば、懐かしいあの世界が、今も鮮やかによみがえってくるのですから。
忘れようとして、決して忘れられないもの――。ジムが一生シルバーの影を追い続けたように、私もきっと一生追い続けるでしょう、私の「宝島」を。永遠の熱き夢を。    (2005/9/1)

戦うコックさん、ジョン・シルバー(笑)


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