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平助くんに恋して
−史実とゲームと妄想の間−



恋をしてしまいました。年甲斐もなく。
お相手は、藤堂平助という名の、幕末を生きた青年です。
新選組八番隊組長。
北辰一刀流を学び、沖田総司、斎藤一、永倉新八とともに四天王と呼ばれた若き剣士。
戦いの場においては常に勇猛果敢、誰よりも先に突撃することから、『魁先生』(さきがけせんせい)と呼ばれたそうです。
その異名のとおり、彼は動乱の時代をまっすぐに駆け抜け、数え年二十四歳という若さで逝ってしまいました。

今、あらためて藤堂平助という人の生涯を振り返ると、いろいろと分からないことやはっきりしないことが多くて、謎に満ちた人だなあ、という思いを深くします。
もともと北辰一刀流の玄武館で学んだ彼が、なぜそこで免許皆伝を授けられなかったのかも疑問ですし、その後、他流派である近藤勇の試衛館へ出入りするようになった経緯もよくわかりません。
後年京へ上ってからも、試衛館派の一員として、新選組創成期からの幹部だった藤堂ですが、その割には小説やドラマなどでもあまり取り上げられることがなく、どちらかというと地味な印象を受けるのは私だけでしょうか。
かく言う私自身、これまでさんざん新選組に入れ揚げてきたわりには、藤堂平助という人はほとんど印象に残っていませんでした。同じように、思想的な軋轢から(だと思うのですが?)、新選組を脱走し切腹して果てた山南敬助のことは、学生時代からとても気になっていたのですが……。
やはり、伊東甲子太郎とともに新選組を離脱した藤堂には、どうしても「裏切り者」というイメージが付きまとってしまうせいかもしれません。
小説などの主人公としては、一本通った筋が細くて、立ち位置が難しいのかもしれないですね。
そんな彼に、どうしてこれほどはまってしまったのか――。
きっかけは、「薄桜鬼」という乙女ゲー。軽い気持ちで手にしたこのゲームが、すべての始まりでした。

◆運命の「薄桜鬼」 

実は、乙女ゲーというものに触ったのも、これが初めて。これまでは、さして興味のあるジャンルではなかったのですが、大好きな新選組の話なら、やってみてもいいかな、と。
そんな軽い気持ちでやり始めたのですが、歴史上に実在した新選組を素材にしている以上、たとえ乙女ゲーといえども、史実を無視し、現実離れした甘々な展開だったりしたら、すぐにやる気が失せていたことでしょう。
ところが――。
いざプレイしてみて、びっくり!
確かに展開としては乙女ゲーなのですが、そこで紡がれる物語は、巧みに史実とフィクションを織り交ぜてあって、しかも幕末という時代の空気感を損なうことなく、圧倒的にシリアスで切ないのです。
かつて新選組に心惹かれたことのある者なら、おそらく涙なくしては進められないくらい……。特に土方ルートは、ほとんど史実そのままの展開でしたから、途中、幾度ゲームを進める手を止めて涙したかしれません。
こうして、どんどん「薄桜鬼」の世界にはまってゆき……。気がついたら、まさかの平助にすとんと落ちていたのでした。

それにしても、なぜ平助なのか?
ゲームをやる前は、原田左之助あたりが本命か、と思っていたんです。キャラ設定もビジュアルも、私好みだし……な〜んてね。まさか、どう転んでも平助だけはないだろう、って(笑)。
もともと、渋いおじさまキャラが好きで、甘えたいタイプなので、男の人に対して「かわいくて萌える」なんてありえない、という感じだったんですよ。だからこそ、安全パイとして、一番最初に平助ルートを選んだのに。
まさか、それが、こんなことになるなんて……!
もう最初に、平助くんのセリフを聞いたとたんに、それまでの既成概念とか自分の中の基準とか、すべて吹っ飛んでしまいました。他の人のセリフは途中で飛ばしてしまうのに、なぜか平助だけは最後まで聞いてしまわずにはいられなくて(笑)。
吉野さんのしゃべり方、その表情、ヒロインに対するまっすぐすぎる思い……なに、このかわいいコ? 反則でしょ!
そう思った途端、恋に落ちておりました。
そうなんです。私にも、母性本能ってものがあったんですね――。自分でもオドロキ!
他の人たちがみんな大人っぽくて、自分の弱さや脆さをあまり外に見せない強い男として描かれていた中で、平助だけが悩んだり泣いたり怒ったり、等身大の若者としてヒロインと同じ目線に立っていたこと、感情表現もストレートで、人間らしさにあふれていたところに、余計に惹かれたのかもしれません。
いつもすごく元気で、明るくふるまってはいるんだけど、その実いろんな葛藤を抱えていて、繊細で脆いところがあって、寂しがりやで……。だからこそ、一緒にがんばろう!って思えるし、こちらから手を伸ばして、何とか彼の力になってあげたい、と本気で思ってしまう。
そんな彼に、「お前が傍にいてくれるだけで、俺すっごくうれしいから」とか「ほんとに、ありがとな」とか言われると、それこそ愛しさで、胸がきゅんとしてしまうのでした。我ながら、若いね(笑)。

こうして、「薄桜鬼」から始まった藤堂平助に対する熱い思いは、いつしか史実の中の彼への思慕となり、ついには自分の中の妄想が大爆発して、創作に向かうところまでいってしまったのです。

◆ゲーム→妄想≠史実 

自分の言葉で、自分の思いで、「藤堂平助」という青年を描いてみたい――。
そう思うと、居ても立ってもおられず、とうとう彼を主人公にした小説を書き始めたのですが、そこではたと困ってしまいました。
私の中にある平助のイメージって、ほんとに「薄桜鬼」だけ。今までに読んだ新選組の小説でも、ほんとに少ししか出てこなかったものですから。彼が主人公の小説というのもほとんどないし、考えてみたら私って、実際の平助のことを何も知らないんです。
そこで、ネットであちこち調べてみたり、秋山香乃さんの小説「新選組 藤堂平助」を読んだりして、何とか少しでも平助の実像に迫りたいと思ったのですが、どうしても謎や空白の部分が多くて、なかなか掴まってはくれませんでした。
なので、やっぱり今でも、私の中の平助のイメージは、薄桜鬼の平助そのままなんですね。実際には、たぶん全く違うのでしょうが、それでも私が平助を好きになったのは「薄桜鬼」の彼だからこそ。だから、自分の世界の中では、「藤堂平助=薄桜鬼のイメージ」でいいかなと思っています。

その上で、拙サイト内での藤堂平助の設定というものを考えてみました。
史実としてきちんと分かっているものだけだと、人物像が曖昧になってしまいますので、あくまでも拙サイト限定の捏造ということでご了承ください。
●藤堂藩主のご落胤で、母は彼が3歳のときに病死。その後は、母方の親戚の手によって育てられるが、折り合いが悪くほとんど家には寄り付かず。そのため、家庭的なぬくもりや家族の愛情というものを全く知らずに、孤独な幼少期を送った。
●千葉道場玄武館にて北辰一刀流を学ぶが、ここでも、落胤の噂のせいで仲間はずれになり、居辛くなった彼は、免許皆伝を受ける前に飛び出してしまう。
●その後、山南敬助の関係で近藤勇の試衛館に出入りするようになり、ようやく自分の居場所を見つける。
●浪士隊に参加して上京後、新選組幹部として活躍した彼に、その後どのような心境の変化があったのか。同門である伊東甲子太郎の加盟、そして山南敬助の脱走・切腹。それらが、どんな影響を及ぼしたのかは分からないが、その頃から新選組のあり方に少なからず疑問を抱くようになっていたのだろう。
●伊東とともに新選組を脱退した平助だが、それはあくまでも思想上の行き違い、己の武士としての信念を貫かんとしたためで、試衛館派に対する憎悪からではなかったと思いたい。(←我ながら甘ちゃんだとは思いますが……)

◆歴史の奔流の中で 

新選組発足当初から、一番年少ながら、試衛館派の幹部として近藤や土方の信頼も厚かったと思われる平助でしたが、新選組が幕府方の実戦部隊という性格を顕著にしていくにつれ、次第に彼の中で不協和音に似た感情が醸されていきます。
もともと浪士隊に加盟して上洛したとき、彼らの志は、天皇を護り攘夷の先駆けにならんというものでした。それがいつの間にか、幕府の手先となり、尊王攘夷の志士を斬ってまわっているのです。
――これは、私の考えていたものと違う。
そんな違和感が、平助や同じ北辰一刀流門下である山南敬助の中に生まれていったであろうことは、想像に難くありません。
彼らが学んだ北辰一刀流は、元来水戸藩とのつながりが深く、自然、道場の雰囲気も水戸学の影響を受けて、勤王思想が強かったようです。最初に受けた思想的洗礼、勤王の志は、その後も脈々と平助や山南の血の中に生き続けていたのでしょう。

やがて、平助の勧誘によって、江戸深川で北辰一刀流の道場を開いていた伊東甲子太郎とその一派が、新選組に加盟します。
伊東は、はじめ水戸で神道無念流を学び、後に江戸に出て、伊東精一のもとで北辰一刀流を修め、伊東家に婿入りして道場を継いでいました。門弟の数およそ百人。著名な国学者たちと広く交遊し、学者としても名高かった伊東は、当代の著名人といっていい大物でした。
平助が伊東の弟子だったという説もありますが、いずれにせよ、隊士徴募のために江戸に下っていた平助が、同門の誼で伊東に入隊の話を持ちかけたと考えていいでしょう。
新選組における伊東の影響力がどれほど大きなものになるか、そこまで考えた上での平助の行動だったかどうかは分かりません。しかし結果として、伊東派(北辰一刀流)は試衛館派(天然理心流)に対抗する勢力となり、後に新選組そのものを根底から揺るがす存在になっていきます。
それは同時に、平助自身の運命をも、大きく動かすことになるのでした。

伊東甲子太郎を新選組に勧誘した平助ですが、不思議なことに、元治元年10月に上洛した伊東らとは同行しませんでした。そればかりか、翌元治2年5月頃までの記録がどこにもなく、この間どこで何をしていたのか全く分からないのです。
そのため、元治2年2月に山南敬助が脱走の罪によって切腹した時も、平助は新選組屯所にはいませんでした。同門の先輩であり、尊皇攘夷の同志であり、おそらくは良き相談相手でもあっただろうと思われる山南の死を知ったとき、平助はどんな思いを抱いたでしょう。
試衛館以来の仲間でさえ、ばっさりと切り捨ててしまえる新選組の非情さに、あらためて背筋が寒くなるような嫌悪を感じたとしても不思議ではないと思います。 
やがて、両派の対立はますます深くなり、ついに伊東らは、新選組を離脱します。
慶応3年3月、伊東甲子太郎ら15名は、話し合いによって新選組と袂を別ち、孝明天皇の御陵衛士として東山の高台寺塔頭・月真院に屯所を構えたのです。
その中に、藤堂平助の姿もありました。
やはり、思想的な食い違いが、彼を同門である伊東の元に走らせたのか。
山南の死や、水戸天狗党の乱に際しての幕府の厳しい処断に対する不信感などが、平助を動揺させたのかもしれません。元々、天領である武州の出身である近藤や土方などとは、幕府に対する愛着も忠誠心も違っていたでしょう。
彼の血の中に流れていた尊王の志が、伊東甲子太郎という人物の出現によって具現化していったと考えられるのではないでしょうか。

◆そして…訣別の時 

伊東や平助らの離脱は、表向きは話し合いによる平和的な分派でしたが、しかし新選組の掟は「局を脱するを許さず」。決してそのまま収まるはずはありませんでした。
慶応3年11月18日、近藤の妾宅に招かれた伊東は、酔って帰る途中、潜んでいた新選組によって暗殺されます。さらに、新選組は油小路七条の辻に伊東の遺骸を放置し、それを囮に、遺体を引き取りにきた御陵衛士たちをまとめて粛清しようとしたのです。
伊東横死の知らせに駆けつけたのは、平助を始めとする7名。すぐに、その場に待ち伏せていた新選組と激しい戦闘となり、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助の3名が討死しました。
一説によると、試衛館以来の仲間である原田左之助らは、わざと道をあけて平助を逃がそうとしましたが、事情を知らない平隊士に斬り付けられ、逃げる機を失って、ついに斬り死にしたといいます。
この油小路事件は、多くの新選組作品の中で重要なエピソードとして取り上げられており、藤堂平助が最も脚光を浴びる瞬間なんですね。
そこでは、たいてい原田や永倉が平助を逃がそうとするシーンが描かれます。それに対して、平助は、友の情誼に感謝しつつも、決してその場を逃げようとはせず、まっすぐに群がる敵の中に突っ込んでいく――。
彼がそこに踏みとどまったのは、あくまでも己の信念を貫こうとする意志によるもの。そしておそらくは、仲間の友情に対する彼なりの答だったのでしょう。
最期まで、「魁先生」の異名そのままに、ひたすら前に向って進もうとしたのだと思いたいですね。


藤堂平助という人物が、近藤や土方、沖田のように熱烈に語られなかったのは、おそらく彼があまりに人間的過ぎたからではないかと思います。
非情に徹しきれず、己が進むべき道に悩み、迷い、逡巡し……。それは、ごく普通の若者の姿。
幕末という動乱の中で、彼は時代を動かすヒーローにはなれなかったけれど、それでも必死で、自分に正直に、真摯に生きようとしました。
そんな平助の生き様に、私は今、とても心惹かれているのです。

そんな平助が詠んだ最後の歌が残されています。
「益荒男の七世をかけて誓ひてし ことばたがはじ大君のため」

2009/11/1


         


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