いにしえ夢語り浅葱色の庭言の葉しずく





散り椿、雪に





慶応三年一二月九日。日本は大きな転換点を迎える。
この日、王政復古の大号令が下った。
将軍職を辞した徳川慶喜は大坂に退き、会津をはじめとする幕軍も潮が引くように京を去った。
新選組もまた京都守護の任を解かれ、伏見奉行所に移ることになった。
情勢はなお混沌としている。いずれ薩長を中心とした討幕派と旧幕軍の間に戦が起これば、伏見は最前線になるだろう。


明日は京を出て伏見に向かう、というその夜。
不動堂村の新選組屯所は、ひっそりと静まり返っていた。
局長近藤勇が、全隊士に一晩の休暇を許したからである。ほとんどの隊士は、それぞれに最後の京の夜を過ごすべく外出し、屯所に残っている者は数えるほどしかいなかった。
「静かだなあ……」
自室の天井を見上げて、沖田総司はぽつりとつぶやいた。
自分の声が思った以上に大きく響いたのも、静寂すぎる夜気のせいだろうか。

――再び、この王城の地に戻ってくることはないんだろうな。

若者らしい感傷に胸が締め付けられ、ふいに目蓋が熱くなった。
京で過ごした五年間の思い出が、あざやかによみがえってくる。楽しいばかりの日々ではない。辛く、切なく、悲しい出来事の方がはるかに多かった。
それでも。
今は、何もかもが懐かしい、と思える。
過ぎ去った時間は二度と帰ってはこない。京での日々こそが、自分にとっての『青春』だったのだろう。
そんな感慨に沈んでいるとき、
「総司。気分はどうだ?」
からりと障子が開いて、土方歳三が顔をのぞかせた。
「なんだ、土方さんか」
「なんだとは、なんだ。お前がひとりで寂しがって泣いてるんじゃねえかと心配して来てやったのに」
「………」
本当に涙がこぼれそうになり、総司はあわてて寝間着の袖で目蓋をこすった。
「静かな夜ですね」
「ああ。幹部連中はみんな出払っちまったし、人気がなさすぎるのも落ち着かねえもんだな」
土方は総司の枕元に座ると、火鉢に炭を足しながら、この男にはめずらしい優しげな笑顔を見せた。
「土方さんには、別れを惜しむひとはいないんですか?」
「そんなもの――」
必要ねえ、と土方は不愛想に吐き捨てた。
「薩長の奴らなんざすぐに蹴散らして、またここに戻ってきてやるさ」
相変わらず威勢がいい。総司はくすりと忍び笑いをもらした。
総司の知る限り、土方は京へ来て以来弱音を吐いたことがない。それがこの男の取柄でもあったが、今夜の土方は少しばかり多感になっているようだった。
総司を相手に、とりとめのない世間話や江戸の頃の話を一人でしゃべっている。
やがて話のネタも尽きたのか、所在なさげに火鉢で手をあぶり出した。
静寂が戻った部屋で、炭のはぜる音が小さく響く。
総司は布団の上に半身を起こし、黙り込んでしまった土方を見つめた。
「朝になっても、帰って来ない人もいるかもしれませんね」
「こんなご時世だ。仕方ねえさ」
やはり今夜の土方は、いささか妙だ。
「そんなしおらしいことを言って。負ける気なんてないくせに」
「違えねえ」
総司の揶揄に対して、土方は楽しそうに破顔した。


やがて部屋を出た土方が、何を思ったか、雨戸を一枚開けて庭先を見ている。
「やけに冷えると思ったら、雪か」
雪、と聞いて、総司も布団を起き出して廊下へと出た。
前栽の生垣の上に、音もなく白い雪片が降り敷いている。
「今夜は積もるかもしれませんね」
「そうだな」
京を去る最後の夜が雪模様というのも、なぜか特別なめぐりあわせのように思われて、二人は黙って降りしきる雪をながめていた。
その時。
生垣の奥に植えられた紅い椿の花が、身じろぎするかのようにぽとりと落ちた。
(ああ、椿が――)
積もり始めた雪の上。
白い大地に咲く、あざやかな朱の色は、まるで血のようだ。
総司には、その紅が己の命の証にも思えて、愛おしかった。

私もこの椿のように、真っ赤に燃えて散りたい。
あと何年、何か月、何日……あなたのために生きられるのだろう。
たとえ残された時間がほんのわずかでも、私は最期まであなたのために、あなただけのために、この命を燃やし尽します――。

「総司」
土方が隣の総司を振り返り、しみじみとした声で言った。
「京の最後の夜を、お前と過ごせてよかった」
総司には土方の表情は見えなかったが、あるいは泣いていたのかもしれない。
土方には彼なりの、京への思いがあるのだろう。
こうして、師走の夜は静かに更けてゆくのだった。





2016/5/5

沖田総司のイメージといえば――。
もっと清楚な花でもよかった気もするし、難しかったのですが、やはり一番彼に似合うのは椿、紅い椿だと思うんです。真っ白な雪の上にぽとりと落ちた、血のように紅い椿の花。それは喀血のイメージでもあるのですが……。
紅い椿の花言葉は、「控えめな素晴らしさ」「気取らない優美さ」「謙虚な美徳」だそうです。




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