いにしえ夢語り浅葱色の庭言の葉しずく




散らし




その日、ぽっかりと手が空いた俺は、久しぶりに植木屋の離れで病を養っている沖田総司を見舞った。
来るたびに病の陰が濃くなっていくようで、正直、総司のやつれた姿を見るのは辛かったのだが。
季節は春。
ようやく暖かみを帯びてきた日差しが、離れの薄汚れた縁側にも穏やかなぬくもりを添えている。
「土方さん。その花――」
と、俺の顔を見るなり、総司は枕元の文机を指さして言った。
「お琴さんが活けてくれたんです」
「お琴?」
文机の上には、小振りの壺に投げ入れられた桃の枝が、可憐な花を咲かせていた。
「時々見舞いに来ては、三味線弾いてくれたり、小唄を聞かせてくれたり。昨日もね、わざわざ花を持って訪ねて来てくれて」
「そうか」
思いがけない名前を耳にして、俺は少なからず動揺していた。
そんな俺の心を知ってか知らずか、総司は半身を起こすと、真正面から俺を見据えて、斬りこむような口調で言った。
「歳三さん。お琴さんに会ってあげてください。あのひとは、ずっと歳三さんを待っていたんですよ」
「………」
「自分から口に出しては言わないけど、きっと心の中ではあんたに会いたいって思ってるんだ。だから、私のところへも足繁く通ってきてくれるんでしょう」
「お琴……さんは、今も独り身なのか?」
思わず口をついて出た問いに、総司はさもあきれた、という顔をした。
「許嫁のままなんでしょう? 自分の勝手でほったらかしにしておいて、よくそんなことが言えますね」
江戸に戻ってから、総司の雰囲気が少し変わったような気がする。以前は、誰に対しても、これほどずけずけとものを言うような奴ではなかった。
自分の命のあるうちに――。
そう思いつめて、自分の胸の内にあるものを、すべて吐き出してしまおうとしているかのようだ。
「しばらくは品川の吉田屋という旅籠に泊まっているそうです。歳三さん、後生だから、お琴さんに会いに行ってやってください」
「分かった。分かったから、もう横になれ。それにしても、なんでお前がそこまで肩入れするんだ?」
総司は一瞬、視線を泳がせ、それからはにかんだような笑顔を見せた。
「同類相憐れむ……かな。お琴さんと私は、同類なんですよ」
それ以上総司は何も言わなかったが、何となくその言葉の意味が分かる気がして、俺は曖昧な微笑を返していた。
日を追うごとに、総司の笑顔が透き通っていく。同時に、彼の命までもが漂白されていくようで、やりきれない思いだけが募るのだった。

◇◆◇

こうなったら、総司の願いを無下にするわけにもいかない――。
いつになく殊勝な気持ちになった俺は、その日のうちに、総司から教えられたお琴が逗留しているという旅籠に向かった。旅籠では、もう軒提灯に灯が入っている。
旅籠の主人に事情を話し、夕闇が迫る廊下をお琴の部屋へと向かう。
「トシさん! ほんとに、トシさんなの?」
俺が部屋に入っていくと、お琴はまるで幽霊でも見るような顔で俺を見た。
「どうして……」
言葉が続かない。
次の瞬間、お琴は声にならない声を上げ、くしゃくしゃの顔で俺の胸にすがって泣きじゃくった。
「………」
細い肩をそっと包むと、お琴はぴくりと体を震わせ、新たな涙で頬を濡らした。
「ほんとにトシさんなのね? 夢じゃないのね?」
「お琴――」
とうの昔に捨てて、忘れた女だった。心のどこかに引っかかってはいたが、総司に聞くまで名前さえ思い出さなかった。
それなのに、今こうして自分の腕の中に感じている体温が、なぜかとても懐かしい。お琴の肌のぬくもりは、故郷の風景のように俺の体と心を癒していくのだった。
「お琴さん。すまない。俺はあんたを待たせ過ぎちまったようだ」
俺の言葉に、お琴は一瞬絶句し、そして激しくかぶりを振った。
「いやだ、謝らないで。私が好きでしていることだもの。トシさんは何にも悪くないわ」
とうにどこかへ嫁いでると思ってた――。喉まで出かかった言葉を、かろうじて飲み込む。
今日までずっと、こんな鉄砲玉のような男を待っていてくれた女に対して、それはあまりに失礼だろう。
「私ね、いつまでもトシさんを待っているって決めたの。多摩川の岸で、忘れてくれって言われたあの時に」
お琴の眸子が不思議な情熱を帯びた。
「私には、あなたを繋ぎ止めることなんてできないから……。それなら、いつかあなたが私のところに戻ってくるまで、その日までずっと待ってるって」
――ああ、と俺は不意を打たれた。
誰かが自分を待ってくれている。それがこんなにもうれしいことだったとは。
もう忘れかけていたそんな人間らしい感情が、まだ俺の中に残っていたことを、素直に目の前の許嫁に伝えてやりたい。だが、言葉にならなかった。
俺は黙って、もう一度お琴の体を抱きしめた。


「また、行ってしまうんでしょう?」
行燈の薄明かりの中で、女は寂しげに微笑する。
「すまない、お琴さん。俺はやっぱり、あんたの所には戻れそうにねえ」
頭を下げる俺に、いいえ、いいえ、とお琴はかぶりを振った。
「今、こうして、あたしに会いに来てくだすったじゃないですか。それだけで、あたしは嬉しいの」
涙ぐんでいるのか。つい、と顔をそらしたお琴は、立ち上がって、宿の小窓をからりと開けた。
一陣の風とともに、淡い薄紅の花びらが舞い込む。
窓の外。手が届くほどの距離に、早咲きの桜の枝が揺れていた。
舞い散る花びらの中で、振り返ったお琴の眸子は妖艶な色をたたえている。
「明日の朝には、歳三さんを笑顔で見送るって約束するわ」
だから、その前に――、と女は言った。
「これから先、ずっとあなたを待ち続ける女に、せめて一夜の形見をくださいな」
「お琴……」
満開の花を散らすように、激しい風が吹き荒れる。
春の夜の、どこか朧な霞の中を漂いながら、俺は初めてお琴の唇に触れた。
ああ、と朱唇から切なげな声がもれる。
その吐息を聞いたとき、俺は急に腕の中の女が愛おしくなり、悲しくなり、胸が痛くなった。
「歳三さん……ずっと、ずっと、待っています」
もう二度と会えないかもしれない。
俺もお琴も、そのことを予感しながら、互いの体を重ねていく。


花散らしの風がどれほど強く吹こうとも、そしてその嵐にすべての花弁が散り果てようとも。
次の春、桜はまた咲く。
たとえこの命が消えても、お琴の中で俺は生き続けるのだろう。
今宵。俺の生きた証を、お前の心に、体に、刻み付けて――。
俺は逝こう。



2018/3/15
 
本当は、一昨年の開設記念に書こうと思っていた連作の中の一つです。こんなに遅くなってしまってすみません。すでに11周年でも何でもないのですが、せっかく考えたお題と企画なので、遅ればせながらアップさせていただきました。ちょうど桜の季節でもあるし。
土方歳三のイメージといえば…これはもう、誰が何と言おうと「桜」。これしかないでしょう。この人ほど桜の花の似合う人はいない。今でもそう思っています(笑)。
ちなみに、桜の花言葉は「精神の美」「優美な女性」だそうで、ちょっと土方さんのイメージには合わないんですが;; まあ、その生き様、志が美しかった…ということにしておきましょう。
さて、ここでは久しぶりに、土方さんの許嫁であるお琴さんを登場させてみました。彼女がその後どんな人生を送ったのか、ぐうたらな私は調べていません。でも、もしかして、ずっとトシさんを待って待って、待ち続けて暮らしていたのかな。そうだったらいいなあ…切ないけど素敵だなあ…って思って書きました。
きっと、それくらいしても後悔しないほど、歳三はいい男だったはず…なんです、たぶん。
 





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