今月のお気に入り
英雄 生きるべきか死すべきか
柴田錬三郎 著
実は、10月のお気に入りは「機動警察パトレイバー」にしようと思っていたのですが、ちょっと原稿が間に合いそうもなくて断念。ほんとに予告倒れですみません。 穴埋め(爆)をどうしようかと悩んだ末、秋はやっぱり読書でしょ〜〜ってことで、以前ブログに載せた「英雄 生きるべきか死すべきか」の感想を再構成して取り上げてみることにしました。 パトレイバーは次回がんばりますので、待っていてくださいね。(…って、また予告してるし) |
●漢(おとこ)たちの熱い物語、シバレン三国志 久しぶりに、柴田錬三郎の「英雄 生きるべきか死すべきか」を読み返している。 うわ〜〜っ、とにかく、すごく懐かしい! ぞくぞくするようなシバレン調の文体といい、ダンディズムあふれる男たちのかっこよさといい、当時私が憧れたそのまんまだ。 とはいえ、なにしろ前に読んだのがおそろしく昔なので、ほとんど内容を忘れてしまっていたりする(爆)。おかげで?再読とはいえ、けっこう新鮮に読むことができたのだが……。 同氏には、この前作ともいうべき「英雄ここにあり」という作品があり、こちらは、劉備たち桃園の義兄弟の挙兵から筆を起こし、孔明が出師の表を奉って北伐に出陣するところまでを描いている。 これも、読んだのは大昔だ(笑)。うろ覚えに覚えてはいるが、細かいところまではちょっと……。 こちらも、そのうち時間ができたら、きちんと読み直してみたい。 本作は、その「英雄ここにあり」の続編である。劉備の死後、蜀を支えて孤軍奮闘する諸葛亮孔明の壮絶な生きざまと、その遺志を継いだ姜維伯約が、蜀の滅亡とともに志半ばで斃れるまでの物語だ。 吉川英治以来あまり描かれることのなかった五丈原以降の三国志が、蜀(特に姜維)中心の視点で綴られており、姜維ファンにとってはバイブルともいうべき作品だろう。 なにしろ、最初の登場シーンからして、ハートにビシビシくるすばらしさ。 冒頭、劉備亡き後の蜀漢の行く末について、ひとり思索をめぐらす孔明の前に、一人の若者が現れる。 魏の最大の敵である孔明を暗殺せんと、単身成都に潜入した刺客。「異常なほどに眉目秀麗で、女人のように肌が白い」と形容されるこの人物こそ、若き日の姜維伯約その人なのだ。 結局、孔明を守護していた趙雲に一喝されて、姜維はその場を立ち去るのだが、最初にこのシーンを描くことによって、姜維の存在は鮮烈な印象となって読者の心に刻まれる。 この後、孔明の北伐まで姜維は登場しないけれども、読んでいる私たちは、この二人の出会いが運命的なものであること、さらにはこの物語が、孔明と姜維の二人を軸にして語られていくであろうことまで予感するのである。 まったくのシバレンの創作であると思われるが、本当にうまい導入部分だ。 ●諸葛孔明 そも彼は神か、魔か? 全3巻のうち1〜2巻は、天才軍師である諸葛孔明が、己の寿命と戦いながら、蜀漢のために粉骨砕身する物語だ。病躯をおして虚々実々の軍略を駆使し、魏の司馬懿、呉の陸遜らと死闘を繰り広げるさまが、克明に綴られていく。 実は、前半の主人公である孔明は、もっと早くに(1巻くらいで)死んでしまったような記憶があったのだが、なかなかどうして……(笑)。 やはり真の主役は孔明ということなのだろう。 で、その諸葛孔明である。 以前に読んだ時はそれほど感じなかったのだが、改めて読み返してみると、この孔明サマはとんでもない「ワル」なのだ! 天をも欺く神算鬼謀、時にとてつもなく冷徹、感情を決して表に表わさず……。 そう、昔はこの「人間離れした」孔明サマにしびれたものだ。しかし、崇高、高潔もあまりに度がすぎると、なんだか人の血の温かさが感じられなかったりする。 正直、あまりにも神格化され過ぎた「孔明」の虚像に、一時嫌気がさしてしまったこともあった。 けれど、それからいろいろいろな孔明像を読んだり見たりするうちに、さまざまな紆余曲折はあったものの、ひとりの人間としての「諸葛孔明」が、今もやはり大好きであることに変わりはない。 ただ今の私には、一滴の涙も流さず馬謖を斬り、毛ほどの動揺も見せずに己の死を受け入れるシバレン流孔明サマよりも、悩み、恐れ、嘆き、苦しむ「人間」孔明サマの方が、現実味を帯びて身近に感じられるのだ。 とはいえ、それによっていささかも「シバレン孔明」の値打ちが下がるわけではない。 ここに描かれる孔明は、やはり天高く輝く1等星。周りを圧倒し、ひときわ明るい光輝を放つ巨星である。 人から抜きん出た才能は、それゆえに孤高な存在とならざるをえない。そんな一人聳える巨人に課せられた孤独こそ、シバレンがこの作品で描きたかった「男の美の極み」だったにちがいない。 ●大志を継ぐ者 姜維伯約 2巻の終わりで、ついに前半の主人公である諸葛孔明が五丈原に陣没してしまうと、いよいよ主役は姜維伯約である。 3巻は、まさに孔明の遺志を継いだ姜維が、戦って戦って戦って――ついに乱戦の中に斃れるまでの悲壮な生涯を描いている。 このあたりになると、登場人物もほとんど知らない人ばかりで、話のスケールもなんとなく小さくなってしまった感は否めないが……。 それでも、孔明の魂が乗り移ったごとく、全身全霊で魏を攻めようとする姜維の生きざまは、悲しくなるほど一途でせつない。 やっぱり、どうしても、姜維では勝てないのだ。司馬懿に、司馬師に、ケガイに、あと一歩のところで負けてしまう。孔明に比しては気の毒というものだが、その絶対的な差はいかんともしがたいのだった。 何より悲しいのは、姜維自身がそのことを承知の上で、それでも戦いをやめるわけにはいかないというところだろう。 勝ち戦であれ敗戦であれ、成都に帰還した姜維は、必ず孔明の廟に詣でて報告する。廟前にじっと額づきながら、ひたすら孔明の姿を思い浮かべて涙する姜維……という図が何度も出てくるのであるが、そのたびに、読んでいるこちらまで胸が苦しくなるのだ。 本作の姜維は、妻帯もせず、人並みのやすらぎも求めず、胸の病に冒されつつも、ただひたすら孔明の遺志を継ぐために戦い抜く「漢」である。 もう少し、人間的な側面を描くエピソードがあればなあ……と思ったりもするが、いやいや、これぞまさしくシバレンの「美学」、ダンディズムの極地なのであろう。 一切の装飾をそぎ落とし、むきだしの本質だけになった姿にこそ、その生きざまがより色濃く映し出されるのかもしれない。 魏に生まれながら、数奇な運命によって蜀に導かれ、その滅亡とともに散ったひとりの男のひたむきな生涯に、柴田錬三郎は温かいまなざしを注ぐ。 姜維の最期――。 「その生身は、矢を射込まれ、ずたずたに斬られて、姜維とは見分けがたい屍骸となって、血汐の海に沈んだが、その魂は、恩師孔明の待つ天へ昇ったのであった。」という文章には、自分の手に余る過酷な宿命を精いっぱい戦い抜いた男に対する、シバレンの深い愛情が込められているように思えてならない。 |
2005/10/1 |
鞠躬尽力、死して後已まん。 |
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