掌上の雪 −沖田総司残照−

九章 山南敬助始末


……かごめ かごめ
籠の中の鳥は
いつ いつ 出やる……

遠くに子どもたちの声が聞こえる。
総司は壬生寺の本堂の縁に腰掛けて、ぼんやりと東の空をながめていた。灰色の雲が、飛ぶような速さで西から東へと流れていく。
今日、山南敬助を斬った。
隊を脱走した山南を、大津の宿まで追いかけて連れ戻し、つい先刻、切腹の介錯をしたのである。手にはまだ、首を落とした時の感触が残っていた。
(寒い――)
素足の先から寒さがはいのぼってくるようだ。総司は小さな咳をひとつ、した。

山南敬助は、試衛館以未の仲間である。江戸にいた頃から近藤の信任も厚く、局長につぐ総長という重責にある大幹部だった。
山南の不幸は、かれの志が、土方歳三の目指すものとまったく相いれないものだったことである。伊東甲子太郎が入隊してからは、その対立はますます深まった。
慶応元年二月二十一日。山南は、ついに脱走した。

――江戸へもどる

部屋に残された書き置きには、それだけが記されていた。
「脱走は切腹。局中法度書は絶対です」
すぐに主だった幹部が集められ、席上、土方のこのひとことで、山南敬助処分の方針は決定した。
「しかし、土方副長――」
とりなしたのは、近藤である。
「これには江戸へもどるとあるだけで、まだ脱走とは決められまい。それに山南くんは、新選組の結成にも多大な功績がある人物だ。それを平隊士と同じようなわけにはいかんだろう」
「誰であろうと、例外を認めるわけにはいきません。まして総長という重責にある幹部だからこそ、このままうやむやにしておくことは、隊の規律を損なうことになる」
断固として言った。伊東は、ひとことも発言しない。
土方の視線が、その場に集まった男たちの困惑した表情の上を流れ、やがて総司の上でとまった。
「総司! すぐに追いかけて、連れもどせ」
「わたしが?」
かすかに拒絶の色が浮かんだのかもしれない。
「そうだ。おまえが行くんだ」
「―――」
総司は言いかけた言葉を飲み込んだ。
山南の脱走は、土方が仕掛けたようなものだ。自ら罠にかかった山南が短慮だというほかはない。何を言っても、もう手遅れだった。
「ああ、それから――、言うまでもないことだが、山南さんは北辰一刀流の使い手だ。くれぐれも油断せぬように」
総司は、小面憎いほどに無表情な土方の顔を、眸のはしでにらむと、
「沖田総司、参ります!」
わざと大きな声で言い、蹴るようにして席を立った。手早く旅装を整え、馬に乗って屯所の門を出るまで、一度も後ろを振り返らなかった。

◇◇◇

三条通から蹴上を越えれば、山科である。
東海道を東へ――。総司はひたすら馬を駆る。
早春の陽はすでに西に傾き、長い影が街道に伸びている。
頭の中は空白だった。ときおり、山南の物静かな横顔が脳裏をかすめたが、むりに心の外へ押しやった。
(よけいなことは考えぬことだ)
そのままの勢いで、大津の宿を過ぎようとした時である。街道脇の茶店から、ふいに飛び出してきた男の姿を目にして、総司は言葉を失った。甘酒の湯飲みを手にしたまま、微笑さえ浮かべて手を振っているのは、山南敬助その人だったのだ。
「おーい、沖田くん!」
「山南さん。――どうして?」
どうして、追っ手である自分に声などかけるのか。気づかなければ、このまま通り過ぎただろうに。
涙ぐみそうになった顔を見られまいと、あわてて視線をそらした総司は、わざと冷たい声でいった。
「山南さん、わたしと一緒に、屯所に戻っていただきます」
ああ、とつぶやいてから、山南は急に肩を落とした。
「――そうか。きみが来たのか」
山南はあきらかに失望していた。近藤が直々に出向いて、話し合いに応じてくれることを期待していたらしい。
「きみを選んだのは土方だろう?」
「―――」
「卑劣な男だ。わたしにはきみを斬ることができないと見抜いている。追手が、土方の息のかかったほかの連中なら、こちらも遠慮はしないつもりだった」
「山南さん――」
総司は、すがりつくような眸で山南を見た。
「わたしを斬って、逃げてください!」
「なにを言う?」
「わたしは労咳で……」
「沖田くん!」
初めて聞く話だ。山南は顔色を変えた。
「もうそれほど長くは生きられない。だからここで、山南さんのお役にたてるのなら、本望です」
「なにを、馬鹿な――、馬鹿なことを言うんじゃない!」
追手とばかり思っていた総司の意外な申し出に、山南の方があわててしまった。
とにかくその夜、二人は大津に宿をとることにして、一軒の旅籠に落ち着いた。

「最後の夜だ。思いきり飲んで語ろうじゃないか」
酒は医者に止められている。だが、山南の心情を察すれば、その提案を断ることはできなかった。
山南は飲み、そしてとめどなくしゃべり続けた。故郷である仙台のこと。幼いころに死んだ弟の思い出。千葉道場の話。試衛館での日々――。
だが、京に来てからの話は、ついにひとつも出なかった。
「わたしは、京へ来るべきではなかったのかもしれんな……」
夜が更けるにつれて、潮畔の町はしんしんと冷えた。ほどなく桜の便りも聞かれようという頃に、季節が冬に戻ってしまったかと思われるほどの寒さである。
「とうとう今年は、桜の花を見ることができなかったな」
山南は何本目かの銚子を空け、一気に盃を乾した。
「どうしても、このまま壬生に帰るとおっしゃるんですか」
「きみは、そのために、ここまで来たんだろう?」
山南は微笑した。部屋の空気までが漂白されていくような、透明な笑顔だった。
「――沖田くん。天から授かった命を、粗末にしてはいけない」
「山南さん!わたしは……、わたしはあなたに生きてほしいんです。わたしの分まで」
総司は哭かんばかりにして訴えた。だが、その必死の懇願にも、山南は静かにかぶりを振ったのである。
「わたしは、もう疲れたよ……。沖田くん、きみは、生きろ。最期まで、己の信ずるままに生きてくれ」
「山南さん――」
はりつめていた緊張の糸が、ふつりと音をたてて切れた。
(ああ。もう俺には、どうすることもできない……)
涙がひとすじ、白蝋のような頬をつたって床に落ちた。身体中の血が凍りついていくようだ。五感は何も感じず、頭の中は再び空白になった。そうでもしなければ、総司の心は、この深い悲しみと絶望に耐えられなかっただろう。
そして今朝早く、総司は山南とともに、屯所に帰ってきたのである。

夕刻になって、刑は執行された。
「介錯は、沖田くんにお願いしたい」
それが、山南の希望だった。
最期の時。
ふと振り返って自分を見上げた山南の、深い哀しみと慈しみにあふれたまなざしを、総司はけして忘れまい。
(死ぬよりも、生きてゆくほうが、ずっとつらいこともある。それでも、きみは、生きなければいけないよ――)


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