掌上の雪 −沖田総司残照−

八章 嫌われ歳三


十二月、新選組にとってちょっとした事件があった。江戸深川で北辰一刀流の道場を開いている伊東甲子太郎が、同志、門弟七名を伴って入隊したのである。
話はさかのぼる。
これより前、新選組は大々的に隊士を募集していた。池田屋以来、新選組の名は文字通り天下に鳴り響いた。だが、活動が大規模になればなるほど人数もいる。さらには、日常の激務で負傷したり、逃亡する者も多く、隊は慢性的な人手不足だった。新入隊士はいくらでもほしい。
そこへ、伊東が同志とともに加盟してもよいとの意向をもっている、という話がもたらされたのだ。膳立てをしたのは藤堂平助である。藤堂はこの時期、隊士徴募のため、ひとり江戸に下向していた。同門の誼みで伊東に参加を呼びかけたところ、快く内諾を受けたという。
「いい話だ。トシ、そう思うだろう?」
「さあ――?」
土方は疑わしそうに眉を寄せた。
伊東甲子太郎。その高名は土方も耳にしている。はじめ水戸で神道無念流を学び、のちに江戸に出て、伊東精一のもとで北辰一刀流を修めた。その後、伊東家に婿入りして道場を継いでいる。門弟の数およそ百人。著名な国学者たちと広く交遊し、学者としても名が高い。流儀も人物も一流である。近藤が相好を崩したのも無理はない。
だが。
(あぶねえな――)
藤堂と伊東、さらに総長山南敬助は、北辰一刀流という剣術の流派でつながっている。そこに、得体の知れぬきな臭さを嗅ぎ取ったのは、土方の天性の勘だろう。さらに、伊東の学問の根底にあるのは、水戸派の尊皇攘夷思想だときいている。
(今、俺たちが斬ってまわっている倒幕の過激派浪士と、紙一重じゃねえか)
そういう連中が、大勢で新選組に入るという。ふと、不服そうに押し黙っている山南のやせた顔が脳裏をかすめた。
(こりゃあ、剣呑だぜ……)
いやな予感がした。土方は漠然とした不安を抱いただけだったが、実はこのとき、藤堂と伊東の間には、重大な密約が交わされていたのである。

初めて訪ねた伊東家の奥座敷で、主と二人きりになるなり、藤堂は声をひそめて言った。
「伊東先生に、新選組を乗っ取っていただきたいのです」
「なに――?」
伊東は、しばし沈黙した。眼前の藤堂平助は、いかにも江戸っ子らしい、いなせな若者である。だが、屈託のない表情とは裏腹に、その口から吐かれた言葉は、あまりにも過激であった。
「近藤、土方を消して、先生に隊長になっていただく」
「………」
「新選組は、もともと尊王攘夷の志をもって結成されたものです。だが現実は、有為の志士をいたずらに斬ってまわっている」
藤堂は、悲壮な声で、抱えていた不満を一気に爆発させた。
「先生は、平素勤王の志厚く、また有能な指導者でいらっしゃる。裏切り者を始末したあと、先生を隊長に載き、新選組を本来あるべき姿に戻し、尊攘のために働きたい。それがわたしの望みです」
「藤堂くん――、本気ですか?」
さすがの伊東も、あまりの事の大きさに頬をこわばらせていたが、それも一瞬。藤堂の言葉に嘘のないことを確信したのだろう。ふっと緊張を解くと、黙って微笑した。
美貌である。色が抜けるように白く、唇が紅い。形のきれいなくちもとに刷かれた笑みは、色気さえ感じさせる。
「――承知しました」
「伊東先生!」
「わたしも常々、京における新選組の暴走には、心を痛めておったのです。貴殿の期待に添えるかどうかはわからぬが――、やってみましょう」
その後、所用で江戸に下った近藤が直接面談して、伊東甲子太郎とその一派の加盟は本決まりになった。近藤は、貴公子然とした伊東の人物と、そのさわやかな弁舌に惚れた。会談は終始なごやかに進んだが、秀麗な貌の裏で、伊東が心底何を考えていたかはわからない。

◇◇◇

伊東甲子太郎は、入隊と同時に参謀という重職に就いた。かれに伴って加盟した男たちも、それぞれ幹部や幹部並みの処遇を受け、隊内における伊東一派の存在はしだいに大きなものになっていった。
土方は、どうにも気にいらなかった。どう考えても、伊東甲子太郎という男が新選組にはそぐわぬように思えてならない。
「うさん臭え――」
「何が?」
「伊東甲子太郎さ。やつはいったい何を考えていやがる? お題目みてえに尊王攘夷を唱える学者野郎が、どういうつもりで新選組なんぞに入隊したんだ?」
「トシ――。尊王攘夷ということでなら、わしだってほかの者には負けんぞ」
たしかに近藤勇は熱心な尊王攘夷論者だった。もっとも尊王攘夷論は、当時の知識階級においては、ごく一般的な風潮だったといっていい。ただその方法として、長州藩などは過激な勤王倒幕派であり、会津藩や薩摩藩は公武合体の立場をとっていたのである。
近藤にしてみれば、伊東のような大物が入隊したことによって、新選組の格に箔がついたように思えたことだろう。実際、近藤の期待どおり、伊東甲子太郎は並の人物ではなかった。流れるような弁舌は聴く者を魅了せずにはおかない。さらに、立ち居振る舞いすべて礼にかない、それが少しも厭味ではないのだ。剣の腕も恐ろしいほどに立つ。入隊したその日から、隊内には伊東の信奉者が続出した。近藤がその筆頭だったかもしれない。
近藤は、幕閣との会談の際には必ず伊東を同行させた。二人で局長室にこもって、終日議論していることもある。
「――トシよ。新選組もここまで大きくなった。もう今までのような寄せ集めの浪人集団とはちがうんだ。これからは、伊東先生のような人物が必要なんだよ」
「近藤さん……!」
「これからの日本をどうしていくか、そのために新選組をどう動かしていくか、今が正念場よ。その道を教えていただくために、伊東先生には、わしが頭を下げて入隊してもらったんだ」

――伊東先生だと……!教えていただくためにだと!

土方の視界は、怒りで真っ赤になった。
(馬鹿野郎! 俺の知ってる近藤勇は、他人におべっか使って教えを乞うような、そんな奴じゃなかったぜ。いつも自分を、自分の力だけを信じて生きてきた――、そんな、男が惚れるような男だったはずだ)
新選組をどう動かすか。そんなことは、壬生に新選組の看板を掲げたときから決まっている。少なくとも土方歳三の頭の中では。
土方は、近藤との距離がしだいに離れていきつつあるのを感じていた。京に来てからの近藤は、雑念が多すぎる。その最大の原因が、政治に興味をもち始めたことだと、土方は思っていた。
田舎剣法の道場主にすぎなかった男が、今や諸藩の家老や幕閣のお歴々と対等の立場で天下国家を論じているのだ。近藤が有頂天になったのも無理はない。
(人間ってのは変わっちまうものなのか。この町には、やっぱり化け物が棲んでいやがるらしい……)
不機嫌な顔をいっそう無表情にして、土方は自室にこもってしまった。

だが、近藤も土方も、この時、伊東一派の仲間内で交わされている会話を知るよしもない。座には、藤堂平助、山南敬助の顔もあった。最も憤懣やるかたない表情をみせているのは山南である。
「新選組は、今のままでは腐ってしまう」
「だからこそ、伊東先生にお出ましいただいたのだ」
「近藤はいい。わたしの口でどうにでもなる」
伊東はいつものように、穏やかに微笑している。
「やっかいなのは、副長の土方歳三――」
誰かが言いかけたのを、藤堂が遮った。
「いざとなれば始末してしまえばいい。倒幕派の浪士にでもやられたことにするさ。この手は新選組の十八番(おはこ)だ」

◇◇◇

近藤勇は、伊東甲子太郎という男に、そしてかれの説く政治の世界に心酔した。
案の定、ひとり取り残されたようで、土方はおもしろくない。総司にも告げず、供回りも連れずに、ふいとひとりで出掛けることが多くなった。そんな日が三日ほど続いたあと、とうとう見るに見かねて、
「土方さん、あぶないよ」
総司は真顔で忠告した。壬生寺の境内である。いつも遊んでいる近所の子どもたちも今日はいない。広い境内はひっそりとしていた。
「長州のやつらか?」
「それもあるけど……。でもね、気をつけないと、土方さんを狙ってるのは長州だけじゃありませんよ」
当世、新選組の土方歳三ほど、世間から嫌われている男は他にいないだろう。
「わかってるさ。俺に消えてほしがってるやつらは大勢いる。――そうさな、案外近いところにも、な」
「おや、ご存じですね」
総司は目をみはった。勘のいい土方は、どうやら伊東一派の思惑に薄々気づいているらしい。
「それならなおのこと、もう少し自重していただかないと……。もう多摩の河原で暴れてた頃の、不良少年(ばらがき)のトシじゃないんだから」
ふん、と土方はそっぽを向く。あいかわらず、小面憎いほどのふてぶてしさだ。
「それにね……」
「それに、何だ?」
「あんまり恐い顔してると、伊東さんに母屋をとられてしまいますよ」
言った瞬間に、わっと総司は後ろへ跳びすさった。土方の平手がとんできたのだ。空を切った右手が勢いあまって、土方は前につんのめった。
「馬鹿!よけるなっ」
「冗談じゃない。蝿だって、叩かれそうになれば逃げるんだよ」
総司は忍び笑いをもらした。まるで遠い少年の日のように、土方とじゃれあっているような気がしたのだ。
たしかに、隊内での伊東の評判は、すこぶるいい。その分、近藤と土方の株は下がり気味だ。とくに土方は、平隊士たちの間で、冷酷非情な鬼副長というイメージが出来上がってしまっていた。
「副長は蛇蝎のような冷血漢。それにくらべて伊東参謀は、温情あふれるまことの武士なんだそうですよ」
「それがどうした?」
「おや、怒らないんですか?」
「怒るもんか――」
土方は視線を遠くへ投げた。眸の先に、枝だけになった銀杏の梢が揺れている。

――俺は、捨て石だ。

いつだったか、土方は総司にそう言ったことがある。
組織を維持していくためには、嫌われ役も必要なのだ、ということだろう。言葉どおり、結党以来、土方はその役に徹してきた。
「どうせ俺は、昔っから嫌われ者のトシだよ」
「本気でつきあえばいい人なのに……。土方さんは誤解されやすいんですよ」
総司はまだ、からかっている。
「別に、他人に理解してもらおうとは思わねえよ」
「ほら、その言い方。まったくかわいくないんだから」
鬼と呼ばれる新選組副長に、面と向かってかわいくないなどと言えるのは、沖田総司くらいのものだろう。
「言いたい奴には言わせておけばいいさ。俺ァ、総司と近藤さんの二人にさえわかってもらえりゃあいい。それに……」
「それに?」
「――俺には新選組がある」
びっくりするほどさばさばとした声に、総司は、あらためて土方の顔を見つめ直した。
意味ありげににやりと笑った目元に、凄みがある。この男がこんな目付きをするときは、ろくなことを考えてはいない。
「だからさ――、その新選組を潰そうとする奴は、誰だろうと許せねえんだ!」
「―――」
先刻とは打って変わった激しい語気に、総司は首をすくめた。土方の眸のなかに、冥い憎しみの炎が燃えている。
(たしかに俺は捨て石だ。だがそれは、新選組を、近藤さんを中心に鉄の結束を持った組織にするためだ。伊東のような似非君子をのさばらせるためじゃねえ!)
土方は、総司を正面から見据えると、苦虫をかみつぶしたような顔で吐き捨てた。
「――あの野郎。いつか、ぶっ殺してやる」


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