掌上の雪 −沖田総司残照−

二章  池田屋



元治元年六月五日。京の街中が祇園囃子に浮かれる、宵山の夜。
新選組の名を、一躍世間に知らしめることになった池田屋騒動の、その大乱闘の最中に、沖田総司は、思いもかけない不幸に襲われた。喀血したのである。

戦闘は二時間あまりにもおよんだという。
一階にいた浪士たちを、ほとんどひとりで倒した後、近藤を助勢しようとして二階に駆け上がった総司は、そこで座敷から跳び出してきた吉田稔麿とぶつかった。
ぎょっとして立ちすくんだ吉田は、相手が新選組隊士であると知って、全身に激しい怒りをみなぎらせた。返り血をあびた顔の中で、棲愴な光をたたえた双眸が、ねめつけるように総司を見ている。
吉田は、この時すでに深手を負っていたらしい。もはや助からぬという絶望が、かれを自暴自棄にさせた。ほとんど無防備のまま、野獣のような声を上げて、眼前の新選組隊士に突進した。
激しい打ち込みを鍔元で受けたとき、総司は、これまで経験したことのない不快な感覚を覚えた。
何かが気管を這い上がってくる――。
かろうじて、吉田の刀を擦り上げて払い、転がるようにして身を離した。咄嗟に振り下ろした切っ先に、かすかに手ごたえがあったが、実際には、総司の剣は相手の肩をかすめたにすぎない。そして、そのままうずくまってしまった。
こらえきれずに咳きこんだとたん、生暖かいものが気管にあふれ、気が遠くなった。
吉田が刀を構え直したのが、気配でわかる。だが、身体が動かない。
(だめだっ。殺られる……!)
薄れていく意識の中で、観念の眼を閉じたその時。
「総司――!」
暗闇の底で、土方の声を聞いた。懐かしい、力強い声だ。

この日、一隊を率いて丹虎に向かった土方は、そこが囮だったと知って、急遽池田屋に駆け戻っていた。
池田屋に向かったのは、近藤勇以下わずかに八人である。出口を固めるために割かねばならぬ人数を考えれば、中に討ち入ることができるのは五人がせいぜいだろう。対する長州の浪士は、三十人を下るまいと思われる。
(近藤さん、総司、永倉、平助――。頼む、俺が行くまでもってくれ!)
街は、裏通りにまで人があふれていた。辻々にたてられた山鉾を見ながらそぞろ歩き、それぞれ宵山の夜を楽しんでいる。
人混みをかきわけながら、土方は走った。三条小橋池田屋までの道のりが、歯がみするほどに遠い。
ようやく、雑踏の中に「池田屋」と書かれた提灯が見えてきた。
「田中君の一隊は裏庭へまわれ。あとの者は俺に続け!」
てきぱきと指揮し、人数を配置してから、土方は、見張りの隊士に目配せだけして踏み込んだ。
中はすでに修羅場だった。そこここに、絶命し、あるいは倒れてもがいている浪士たちの姿が見える。それらには目もくれず、土方はひたすら近藤や総司の姿を捜し求めた。
階段を登るのさえもどかしく、二階中央の座敷に躍り込む。部屋の隅の暗がりに、刀を振りかぶった吉田稔麿と、片膝をついている総司の姿を見つけた時、土方は声にならない声をあげた。
「―――!」
一閃。吉田を抜き打ちに斬り捨て、総司に駆け寄る。
「総司っ、無事か――?」
「土方さん……」
総司は、おびただしい血に汚れた蒼白な顔を上げた。まだ、身体全体が自分のものではないように頼りない。
「どこをやられた?」
目の前に、精悍な土方の顔がある。
「大丈夫……。どこも、斬られてなんか――」
大きく息をついて、総司はようやく混濁していた意識が戻ってくるのを感じた。土方の腕につかまったところで、安堵感がどっと押し寄せてきた。
その時。
悪寒が背中を走った。再び、気管に血があふれ、総司は激しく咳きこんだ。大量の鮮血が口から手のひらへ、手のひらから甲へとしたたっていく。
「総司っ?」
土方は絶叫した。端正な顔がひきつっている。
その輪郭が急にゆがんだかと思うと、あたりの景色は暗闇に溶けるように沈んで、総司はその場に昏倒した。

◇◇◇

壬生の屯所の一室に、総司はひとり寝ていた。
池田屋で倒れてから、もう五日になる。虚脱感はおさまったが、熱はなかなか引かなかった。
もちろん喀血のことは誰にも話していない。所司代から差しまわされた医師にも、返り血だといってごまかし通した。
「絶対に――」
と、総司は土方に懇願した。
「血を吐いたことは誰にも言わないでください。近藤先生にも――」
「わかった。わかったから寝てろ」
土方は、わざとそっけなく、総司の部屋に近寄らぬようにしているらしい。
(労咳か――。もう、永くないのかな)
当時、労咳(肺結核)は不治の病と恐れられていた。業病とさえいわれたほどである。血を吐くということは、死を宣告されたに等しい。
天井の桟を見上げながら、総司は漠然と自分の死期について考えている。不思議と切実な感じはしなかった。あまりに大きな衝撃は、受け止めるには白々しすぎて、どこか他人事のようにさえ思える。

「――沖田くん。どうだ?」
野太い声に、思考を破られた。
「ああ、原田さんか」
障子の外に、原田左之助が立っている。大きな身体に似合わぬ人なつこい笑顔だ。総司はすぐにいつもの明るい表情に戻って、伊予訛りの、いかにも豪傑という風貌の男を見上げた。
「平助もどうやら動けるようになったし、あとはお前さんだけだ。まだ悪いのかい?」
「藤堂さんが?そうですか。そりゃあ、よかった」
池田屋での赫々たる戦果からすれば、新選組の死傷者は、驚くほどの少なさだった。ただ、幹部の中ではひとり藤堂平助が、頭に重傷を負って臥せっていたのである。
「ほれ、また他人事みてえに。俺はお前さんのことを心配してるんだぜ」
「わたしなら大丈夫ですよ。ちょっと身体の調子が悪かっただけで、かすり傷も受けてないんですから」
「なら、いいんだが――」
原田は右手でがしがしと頭をかきながら、病人に温かなまなざしを向けた。
伊予松山藩で仲間奉公をしていたという原田は、苦労人らしく、人一倍友人思いで情にもろい。無骨な態度が、かえって相手に何ともいえぬ親近感を抱かせる好漢である。
「いやあ、しかし、あのときは驚いたぜ。かつがれたお前さんより、かついで出てきた土方さんの方が、幽鬼みてえな青い顔をしてたんだから」
「ええ――」
「いつもあんまり感情を表にださねえ人だからさ、あんなに取り乱した土方さんを見たのは、初めてだ」
「そりゃあ、なんていったって土方さんは、わたしの兄上ですからね」
総司は、背中を丸めるようにしてくすくすと笑った。

江戸を発つ前の日、姉のお光が、夫の林太郎とともに試衛館を訪れた。二人は、あらためて近藤と土方に頭を下げると、くれぐれも弟のことを頼むと、そればかりをくり返した。
「総司さん。あなたも近藤先生を父上、土方さまを兄上と思って――」
「いやだなあ、姉さん。そんな柄にもないこと、恥ずかしいよ」
総司はしきりに照れくさがったが、それ以来、土方は、本当に総司を弟のように思っているらしい。
このおそろしく非情で偏屈な男は、なぜか昔から、総司に対してだけは薄気味悪いくらいにやさしかった。
京へ来て間もないころ、二人で鴨川べりを歩きながら、ふと土方がもらしたことがある。
「おめえを見てると、哀しいんだ」
「何なんですか、それは」
総司は頬をふくらませたが、土方にとってかれは、弟という以上にかけがえのない存在だったといっていい。
(世間の誰よりも、総司は、俺の生き方をわかってくれている。俺みてえなできそこないの男に、黙ってついてきてくれる――)
土方は、自分の性惰の偏狂さを、誰よりもよく自覚していた。それだけに、自分とは対照的な、総司の天性のあくのなさがまぶしくもあり、一種はかなげな生が、愛しくてならなかったのだろう。
「だから、守ってやりてえのさ」
「それって、なんだか気味が悪いよ、歳三さん」
総司が思いきり首をすくめる。
「こんのやろゥ!」
思わず、武州なまりが出た。

――本当は、守られているのは俺の方かもしれねえ。

総司が側にいるだけで、かかえている孤独が癒されるような気がする。
が、口数の少ない男だ。そこまでは言わない。だから総司は、あくまでも土方の自分への好意は、兄が弟に対して示すようなものだと思っていた。
「姉さんのあのときの形相は、わたしから見ても必死だったからなあ」
「そうまで頼まれちゃあ、後へはひけねえわな。沖田くんの姉さんは美人だし、土方さんは案外あの手の顔が好みかもしれんぞ」
「――まさか」
総司はころころと笑っている。笑いすぎてまた咳が出た。
部屋を出るとき、ふとふり向いた原田が、
「一度、いい医者に診てもらったほうがいい。会津のお偉方にでも紹介してもらったらどうだ?」
いつになく厳しい表情で言った。うすうす総司の病に気づいているらしい。
「え? ええ。そのうち―――」
総司の顔から笑みが消えた。かれは、急にうつろな眸になると、言葉を濁した。



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