掌上の雪 −沖田総司残照−

終 終焉、あるいは出発(たびだち)


そして。
月日は風のように、人の営みなどあざ笑うかのごとく、無慈悲に過ぎ去っていく。
すでに、新選組の時代は終わった。京の町から誠の旗と浅葱色のだんだら羽織が消え、明治という新しい時代が始まろうとしていた。
だが、土方歳三はまだ戦っている。鳥羽伏見で敗れ、甲州勝沼で敗れ、それでもかれは戦うことを諦めない。
江戸へ戻ってきた土方歳三と近藤勇は、彰義隊に参加しようという原田左之助、永倉新八らと袂を別ち、下総流山へ向かうことを決めた。もちろん官軍相手に徹底抗戦するつもりである。勝算があるわけではない。戦うしかないのだ。
(おそらくもう、生きてふたたび江戸へ帰ってくることはねえだろう――)
土方は覚悟を決めている。
かれが病床の沖田総司を見舞ったのは、流山へ発とうという前の日のことだった。

久しぶりに見る総司のあまりのやつれように、不覚にも土方は目頭を熱くした。
「左之助が出ていったよ」
「原田さんが――!」
「彰義隊にはいるんだとさ」
「そうですか……」
「新八もいっしょに行くそうだ」
ぽつり、ぽつりと話すことばが、どこか寂しげに聞こえる。
「左之の野郎、これからは自分の好きにさせてくれとぬかしやがった」
吐き捨てながら、土方の横顔がふいにゆがんだ――ような気が、総司にはした。
「トシさん――。試衛館にいたころはよかったよ」
原田はしみじみといったらしい。その日の飯さえ心配しなければならないような毎日だったが、皆で犬ころのようにじゃれあい、自分たちのやりたいようにやっていられた、と。
「京に上ってからは、数えきれねえくらい人を斬った。時には同じ新選組の隊士や、あげくに山南さんや、平助や……、試衛館の仲間まで――」
「左之!」
「そりゃあ、楽しいこともあったさ。――けど、京での俺は、ほんとの俺じゃなかったような気がする」
土方は無言だった。土方歳三にとっては、京こそが己の生きる舞台であり、新選組副長としての日々こそが本当の自分であっただろう。そう思わなければ、この五年間があまりにも哀しいではないか。
「新選組はもうなくなっちまった。だから、もういいだろ? 土方さん、これからは俺の好きにさせてくれ」
原田左之助は、そう言って袂を別っていったという。

「――新選組は、なくなっちゃいねえ!」
悲痛な声を絞り出すようにして、土方は空を振り仰いだ。その髪に、肩に、桜の花びらが散りかかる。
「歳三さん……」
「近藤さんと、総司と、俺と。結局また三人になっちまったな」
振り出しに戻っただけさ、と背中でうそぶく土方に、総司は精一杯の笑顔をつくってみせた。
「これから、どうします?」
「下総の流山へいくよ。近藤さんとも相談ずみだ。そこで若い運中を集めて、官軍とひと戦やらかす」
「勝てますかねえ……」
「やってみなきゃわからねえさ。勝負は時の運だ」
事もなげにいう。ひとが聞けば、世間話のように思うだろう。
「――負ければ、……北へゆく」
「北?」
「会津、仙台、どこでもいい。俺といっしょに戦ってくれるところがある限り、俺は行くよ」
ふりむいた土方の眸が笑っている。
「俺と新選組は、官軍にとっちゃ疫病神なんだそうだ」
楽しげに肩が揺れた。
「どこまでも崇ってやるさ」
土方は、最期の最期まで土方らしい、と総司は思った。この男は戦うことを楽しんでいるのに違いない。
「どんなことがあっても、わたしは、歳三さんについていきますよ」
「おめえはいつだって、俺といっしょだ」
骨と皮ばかりになった手をそっと握りしめながら、土方は、本当に総司がいつも側についてきてくれるような気がした。

――総司。

(心だけを、俺の側に寄り添わせていてくれ――)
その時、一陣の春風が、雪のように花びらを舞い散らせて通り過ぎていった。
「綺麗だなあ。俺のように無粋な者でも、この景色には胸が熱くなる」
「ええ……」
「男の散り際もこの花のようであるべきだ。そう思わねえか?」
土方の肩越しに乱れ飛ぶ花吹雪が、総司の眸いっぱいに広がった。花びらの淡い薄墨色が、記憶の中の雪の色に重なってゆく。
(桜の散り様は見事だけれど……。春の淡雪と同じで、落ちれば消えてしまうはかないものですね――)
人の世もそうではないか。命も、夢も、すべては瞬時の幻にすぎない。だからこそ人は、限られた生を精一杯生きているのだ。もがき苦しみ、血を流しながら。

――この人は、死に場所を捜しているのだ。前のめりに斃れるための――。

そんな予感がした。
総司は、土方歳三の三十余年の人生の軌跡を思った。そして、かれと出逢ってからのさまざまな思い出を、しっかりと胸の底に刻みつけていた。

◇◇◇

慶応四年五月三十日。
三日続いた雨がようやくあがって からりと晴れた日の朝、総司は逝った。
「歳三さん。ほら、雪だよ――」
毎朝ようすを見にくる植木屋の女房が聞いた、それが最後のことばだった。驚いて外を見たが、もちろん雪など降っているはずもない。どこまでも青い、梅雨晴れの夏空が広がっているばかりである。
たった二十五年しか生きることを許されなかった若者は、手のひらに落ちるか落ちないかのうちに消えてしまう淡雪に、命のはかなさと美しさを見ていたのだろう。
総司は、左手に菊一文字を握りしめ、縁側ににじり寄るようにして倒れていた。最後の力で、黒猫を斬ろうとしたという。だが、斬れずに死んだ。
剣士として生き、剣士として死ぬことを渇望した総司。最後まで頭をあげ、前のめりに倒れたであろう、かれ――。
その死顔は、微笑むように穏やかだった。

総司の身体を抜け出た魂は、まっすぐに北ヘ、土方歳三のもとへ翔けていったにちがいない。
女房がなにげなく見上げた北の空には、遠く一群れの夏雲がわだかまっていた。雲の輝きと空の青さが溶け合う彼方に、一瞬、ほの白い閃光がにじんで消えた。
それは、総司が夢見た雪の色だったのだろうか。
夏の朝のかげろうにも似た――。

―――完


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