掌上の雪 −沖田総司残照−

十二章 雪の色


土方歳三は、とっぷりと暮れてきた道を、提灯も持たずにさっさと歩いていく。土を噛むように歩くのは、この男の癖だ。その早さに追いつこうと、総司はいつか小走りになっていた。
浄土宗の総本山である知恩院を控え、このあたりには塔頭や僧坊が多い。道の両側は、延々と続く土塀と生け垣である。
「歳三さん、待って!」
青蓮院の手前まできたところで、総司はとうとう土方の袖にすがりついた。息をきらしながら、
「――千穂さんは、長州の、間者なんかじゃないんだ。本当だよ!」
必死に訴えたが、木の下闇の中で、土方はあいかわらず無表情のままだ。
「お願いだから、俺のいうことを聞いて」
わずかに視線が動いた。底無し沼のような暗さをたたえた双眸が、そこにあった。
「そんなことは解っている」
「え――?」
「千穂がどういう立場にいたか、さっき桂小五郎に聞かしてもらったさ」
土方歳三が愛した女は、長州脱藩浪士の妻だった。夫だった男は、新選組に斬られて死んでいる。どう考えても、成就する恋ではない。
常に破綻の危機におびえながら(それはすなわち死を意味する)、それでも千穂は、すべてをなげうって土方を愛そうとした。ついには、我と我が身で土方をかばい、銃弾に斃れた。
「――だからこそ、気持ちのやり場がねえんだ……!」
土方の双眸は、真っ暗な虚空をにらんでいる。

ぽつり、とその額に雨が落ちた。見る間に黒い点が石畳を染めて広がってゆく。
「いけねえ。とうとう降ってきやがった」
見上げた空は、雲の境もわからぬほどの暗闇だ。その闇の中から、銀の糸をひくように、後から後から冷たいしずくが降り注いで、ふたりの肩を濡らした。みぞれ混じりの冷たい雨である。
「総司、どこかで休もう。この雨は身体によくねえ」
土方は紋服を脱ぐと、総司の肩に着せかけた。そして、自分より上背のある身体を抱きかかえるようにして、手近な出逢茶屋に飛び込んだ。
「女将、すまんが――、連れが急に具合が悪くなってな。少し休ませてもらいたい」
「まあまあ、急な雨で……。お困りどっしゃろ。どうぞ、ごゆっくりしていっておくれやす」
四十路は過ぎたかと思われる女将が、艶っぽい目つきで微笑した。ふっくらとしたうりざね顔に鉄漿(かね)の色が鮮やかだ。
近ごろは男同士の客も多い。陰間茶屋と称するそれ専用の店もあるほどだ。女将は、ずぶ濡れになって飛び込んできたふたりの男を別に奇妙にも思わず、また、よけいな詮索もしなかった。
通されたのは、離れの一室だった。静まりかえった部屋に、庭先を濡らす雨の音だけがかすかに聞こえている。庭右を踏んで、下働きの仲居が火桶と手拭を運んできた。
「まあまあ、えろう濡れといやすなあ。なんぞ御召し物をもってきますよって、はよお着替えやす。風邪でもひかはったら、えらいことどっせ」
「たのむ――」

女が出ていくと、部屋はまたひっそりとした。しめやかな雨の気配が屋根を覆い、総司も土方もひとこともしゃべらず、時間だけが静かに過ぎていく。
声に出せば、今あるこの世界が壊れてしまう――。そんな気がして、じっと息をこらしているのだ。
総司は先刻からずっと、泡立った心を抱えたまま、木偶(でく)のように部屋の隅に突っ立っている。
「総司、いい加減にしねえか。ほんとに風邪をひくぞ」
見かねた土方が濡れた紋服をはぎとり、それを衣桁に掛けようとして、ふいに手をこわばらせた。それは、土方のために千穂が縫ってくれたものだった。

――よかった。よくお似合いになられますわ。

あるいは心のどこかに、哀しい予感があったのだろうか。仕上がった着物を男の肩に羽織らせながら、しみとおるような笑顔を浮かべていた……。
女の家を訪うたびに、こうして脱いだ紋服を衣桁に掛け、出立の折りにはそっと肩に着せかけてくれた。女の手のぬくもりと、髪油の甘やかな香りが、今もあざやかに残っている。
だが、すべては幻影。二度と再び、戻ってはこないのだ。その声も、そのしぐさも。
「千穂……」
声に出して女の名前を呼んだとき、土方の中で音をたててはじけるものがあった。こらえていた感情が胸にせき上げ、土方はその場に立ち尽くした。
(お前は、もう、いないんだな――)
ひとが死ぬとは、こういうことなのか。
深い喪失感と虚無だけが、胸の中に充満している。
急に視界がぼやけた。土方は、自分でも気づかぬうちに泣いているのだった。
「いっそのこと、千穂がほんとうに長州の間者だったなら、――そしたら、あいつのことを憎んで憎んで……。忘れちまうことができたかもしれねえのに……」

――それさえできねえ!

肩が震え、声にならない鳴咽が漏れた。
「土方さん……」
これほど無防備な土方は見たことがない。その後ろ姿の哀しさに、総司は、崩れるように土方の胸にしがみついた。
「歳三さん。――俺、恐いんだ」
口調が、宗次郎と呼ばれたこどもの頃に戻っている。
土方の着物の衿からは、血の匂いがした。先刻の刺客の返り血だろうか。あるいは、皮膚にしみついた匂いかもしれない。
自分の身体も、きっと同じ匂いがするのだろう。
「死ぬのが恐いんじゃない。毎日毎日、命の削られていくのを見ているしかない自分が情けなくて……。あと少ししか生きられない自分なのに、他人を殺しながら生き永らえているのがつらいんだ」
「――総司!」
甘えだといわれてもいい。今の土方になら自分の弱さを受け止めてもらえるような気がした。
今日まで生きてきたこと、たとえそのすべてが罪であったとしても、土方なら許してくれるだろう――。
その肩のあまりの薄さに、土方は思わず眸をうるませた。
「総司……総司……、この馬鹿野郎。なんで労咳になんかなっちまいやがったんだ!」
「歳三さん」
「俺みてえな嫌われ者ならいざ知らず、おめえのようないい奴が――。どう考えても理不尽じゃねえか」
土方は天にむかって怒っていた。目頭に涙さえにじませて――。
それを見たとき、総司の全身に震えが走った。身体中の毛がそそけ立ち、胸の芯が熱く燃えた。
(この人のためなら、今ここで、死んでもいい――)
「いいえ、俺でよかったんですよ……。土方さんに病気なんて似合わない」
「総司――」
その時、先刻の仲居が着替えと酒肴を運んで来た。上がり框(かまち)の向こうで、まだあどけなさの残る顔が、驚いたように二人を見つめている。
「あ……あの、ここに置いときますよって。何か御用どしたら、呼んどくれやす」
一種異様な雰囲気に気圧されたのか、女はやっとそれだけをいい、そそくさと出ていってしまった。

いつのまにか雨の気配は消えている。火桶の中で炭のはぜる音が、静寂をよけいに深いものにしていた。
「総司。頼むから――。身体を大事にしてくれ。俺ァもうこれ以上、大切なものを失いたくねえんだ」
総司に向けられた土方のまなざしが、いつにも増して温かい。千穂を、愛するものを失った哀しみによって、土方歳三という男の性根が矯められ、心のあくが浄化されたのだろうか。
その視線に引き寄せられるように、ついに総司はひとつのことばを口にした。
「俺ではだめですか?」

――俺では、あの人のように、あなたの心を安めることは、できませんか?

それは、今日まで何度も何度も胸の中で繰り返しては、そのつど喉元でこらえてきた言葉だった。
土方は驚かなかった。むしろその告白を予期していたかのごとく、そっと総司の肩を両手で包み込んだ。
「総司。おめえは俺のために、命を削って今日までついてきてくれたんだろう?」
どうして気づいてやれなかったのか、この必死の想いに。これほどの愛に。

――もういい。もういいんだ。

土方は総司を抱く手に力を込めた。自分の中のかたくなな部分がそっとほぐれて、ゆるやかに溶け出していくような気がする。
総司の冷たい唇が、土方の唇をかすめて、すっと頬にそれた、その時。
土方の全身は火になった。自分の腕の中にある若者のきらめくような命の残り火が、何にも増していとおしい。
「総司――!」
「歳三……さん」
静寂の中で、永遠ともいえる時間を漂いながら、二人は溶けあい、求めあい、そして与えあった。

◇◇◇

すべての音が吸い込まれてしまったかのように、世界はひそと静まりかえっている。

――身体がだるい……。

蒲団の上に横たわったまま、総司はしばらくの間、幸福な余韻に身をまかせた。ふりむけば、息が届くほど近くに土方の顔がある。土方は眠っていた。
起き上がって身繕いを済ませた総司は、乱れた髪を掻き上げながら、そっと小窓を開けてみた。
窓の外は、ぼんやりと明るい。いつの間に降ったのか、前栽の木も庭石の上も、うっすらと雪化粧に覆われている。
「歳三さん。雪だよ、冷えると思ったら――」
言いながら、総司は手をのばして、夜の闇に手のひらを広げた。
ひとつ、ふたつ……。もろくて透明な結晶が、手の上できらきらと光る。春の淡雪は、手のひらに落ちるか落ちないかのうちに溶けて、小さな水滴にかわってしまう。
「きれいで、だけど幻みたいにはかない――。そうだ、涙の色だね」
いいながら、総司は本当に涙ぐんでいる。
「総司――」
まどろみから醒めた土方が、総司の肩越しに窓の外をのぞき込んだ。そして、もう一度総司を抱き締め、唇で頬の涙をぬぐってやった。
「総司、死ぬな……。俺が、俺が必ず守ってやる。だから――、俺より先に死ぬんじゃねえぞ」
土方を見上げる総司の瞳の中に、今までにない強い光が宿っている。
「歳三さん。俺、前を向いて死にたいんだ。病で痩せ細って、起き上がることもできないでみじめに死んでいくなんて、わたしには耐えられませんよ」
「………」
「これから世の中がどうなっても、わたしは、剣士として生きていきたいんです。闘って、闘って、最期は前のめりに斃れたい――」
「そうだな、総司。俺も、そうありてえと思っている」
土方は、夜の闇に乱舞する風花の群れを網膜に焼き付けた。
「時勢は変わってゆく。もう俺たちの力じゃどうにもならんかもしれん。時流にのってうまく立ち回る奴もいるが、俺にはできねえ。不器用だからな――」
土方の言棄どおり、このあと時代は大きく動いていく。傾いた徳川幕府の屋台骨は、もはや誰の手によっても支えきれないところまできていた。維新への流れは、歴史の大きな潮流だったといっていい。土方は、この男特有の勘で、それを感じている。
――それでも、と土方は言った。
「俺は最後まで、時流ってやつに逆らってやるさ。それが、俺と新選組の生き方だ」
ええ、と総司はうなずいて、ほれぼれと土方を見た。自分が土方歳三という男に魅かれてやまないのは、この強引なまでの一途さなのだ。
「わたしも最後まで、土方さんについていきますよ」

総司が土方を求めたのは、たった一度、それきりだった。
それからは、たとえ二人きりになる機会があったとしても、
「伝染ったらどうします?」
わざと遠くに離れているのだ。
だが、心は常に土方とともにある。言葉には出さずとも、瞳に宿った光が、想いの強さを語っていた。
それからの総司は、殺戮と粛清に明け暮れる日々を黙って耐えた。隊務を遂行するために、あえて非情に徹した。
幕末の京の町を、総司の生が狼のように疾走する。それは、確実に迫りくる死の影との闘いでもあった。
(どんなことがあっても、俺は歳三さんについていきますよ――)
土方を想うことで、強くなれる。あの夜の雪の色を思い出すたび、自分の中に新しい命が生まれるような気がするのだ。
時、慶応元年春。沖田総司、二十二歳。
副長助勤にして一番隊隊長。剣士としての強さは新選組随一といわれている。


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