掌上の雪 −沖田総司残照−
小半刻、楓樹の間をあてもなく逍遥して、ようやく八坂神社の境内までおりてきた総司は、そのとき偶然にも、遠くの茶店の縁台に土方の姿を見た。 「―――!」 あわてて声を飲み込んだのは、横にすわっている千穂に気づいたからである。 土方は談笑している。幼いころから一緒に暮らしてきた総司でさえ、見たことのないような穏やかな笑顔だ。新選組の者が見れば、別人だと思うであろう。 (歳三さん――。あんたは一度だって、そんなふうに俺に甘えてくれたことはないね……) いたたまれなくなって、そっとその場を離れた。四条大橋まできて、橋の上から河原を歩いている千鳥の姿を目にしたとき、ふいに涙がこぼれそうになった。 総司は立ち止まり、長いこと欄干にもたれて、冷え冷えとした鴨川の流れを見つめていた。道行く男たちが、この寒空に何を物好きな、という顔で振り返っていく。ひとつ、ふたつと、川の向こう岸に灯りはじめた明かりの色が胸にしみた。 ようやくのことで、総司は西に向かって歩き始めた。 四条大橋を越えたところに、木屋町の番屋がある。何げなく通り過ぎようとして、総司は立ち止まった。自分を呼ぶ声がしたのである。 番小屋の中から顔を出したのは、原田左之助だった。 「あれ? ――総司、土方さんと一緒じゃあなかったのか?」 「え?」 「いや、昼ごろ清水坂のあたりで見かけたんだが、お前さんと会うようなこと言ってたからさ」 「ふーん……?」 総司は、何げない顔でとぼけてみせた。 「土方さんのことだもの。どうせまた、女の人のところでしょ。わたしはそういう時だけ、ダシに使われる」 思いきり唇をとがらせてみせる。昨日からの女々しい自分が、妙に腹立たしくてならない。 「そういう原田さんこそどうしたんです、こんな所で?今日は非番だから、一日おまささんのひざ枕で羽根を伸ばすんじゃなかったんですか?」 「いやあ、俺もそのつもりだったんだが」 原田は、照れ臭そうに鼻の頭にしわを寄せて笑った。 原田左之助は京に来てから、祇園の茶屋で仲居をしていたおまさという女と所帯を持った。おまさは、四条木屋町から少し西に入ったところに住んでいる。この番屋のすぐそばだ。 「実を言うと、昼過ぎからおまさのところで飲んでたんだがな……。つい先刻、顔見知りの地廻りから妙な知らせがあって、飛び出してきたんだ」 それによると、建仁寺の境内に長州者らしい浪人十数名が集まり、不穏の動きがあるという。 「今、屯所に使いをやったところだ。新選組がどうのとか、土方がどうのとかいう話をしていたらしい」 「長州か。池田屋以来、恨まれてますからね。とくに土方さんは……」 そこまで言って、急に総司は顔色を変えた。 (まさか――?) 「左之さん、建仁寺って言ったね?」 建仁寺は祇園の南にある禅寺で、八坂神社とは目と鼻の先にある。 突如、 「あーっ、歳三さん、やばいよおっ!」 総司の喉元から悲鳴に近い声がもれた。 「左之さん、行こう!」 言った時には、すでに足は東に向かって駆け出している。 「ど……どこへ? どうしたってんだっ、おい総司!」 「行き先は八坂神社。とにかく早くっ!」 振り向いた総司の血相が変わっている。つられて原田も、番小屋の提灯をふたつ、ひったくるようにして後を追った。 「今は説明してる暇ないんだ。早く行かないと、鬼の副長がホトケになっちまうよっ」 「なんだって――?」 何のことやら原田にはわからない。総司に引きずられるようにしながら、暮れなずんでくる四条通を、ものも言わずに走った。 (うかつだった……。歳三さんにもしものことがあれば、すべて俺のせいだ!) なぜ、気づかなかったのだろう。たとえ千穂が間者でなくとも、そこを見張ってさえいれば土方は必ずやってくる。罠を仕掛けるつもりなら、いつでもできるのだ。 ――どうか、無事で……! 総司は生まれて初めて、人間を超えた存在を思った。そして、心の底からその恩寵を祈りたかった。 息せききって祇園八坂神社の石段下までたどりついた時、境内にはすでに夕闇が迫っていた。 先刻、土方と千穂の姿を見かけた茶店は、早々と戸を降ろしている。 「どこへ行ったんだろ?」 「だから、いったい、何だってんだ?」 息をきらして、原田がぼやく。それにはかまわず、総司は血眼になって二人を捜した。が、人気のない境内はしんと静まりかえっているばかりである。 ――俺の思い過ごしなら……。 そうかもしれない。土方と千穂は、すでに何事もなくこの場を離れているのかもしれない。そうであってくれ、と念じたそのとき、社の奥のから銃声が響いた。総司と原田は、弾かれたように顔を見合わせた。 「左之さん、上だっ!」 「おう! 行くぞっ」 二人が駆け出している頃、土方歳三は、神社の奥宮へ続く疎林の中にいた。 千穂の身体を抱き取るように支えた土方の周りを、刺客の一団が取り囲んでいる。千穂は傷を負っていた。 「千穂! しっかりせい」 「………」 唇がわなないたが、声にならない。胸元が赤く染まっている。土方を狙った銃弾が、咄嗟にかれをかばった千穂の胸を貫いたのだ。 「亭主の仇をかばって撃たれるとは、馬鹿な女だ」 「桂――! きさまっ」 短銃を撃った男。刺客たちを指揮している頭目は、長州の桂小五郎だった。 桂は試衛館時代の土方を知っている。もちろん、名もない三流道場の師範代としての土方歳三を、である。その眼には激しい怒りと侮蔑の色があった。 土方は千穂をそっと地面に降ろすと、佩刀和泉守兼定を抜いた。青眼に構える。 刺客たちは、じりじりと間合いをつめてくる。皆、かなりの使い手らしかった。土方には盾に取る一本の木もない。わきの下を冷たい汗が濡らした。 ――突。 土方の足が地を蹴った。 一番手薄なところをめがけて踏み込む。振りかぶった剣が、電光のような遠さで相手の籠手を襲う。右手首が宙に飛び、男は声もあげずにその場にうずくまった。 囲みを切り崩し、木を背にする。それ以外にこの窮地を脱する術はない。 土方は前ヘ、前へと出た。それにつれて、刺客の輪も移動していく。 桂はゆっくりと、次の弾丸を込めた。 その時である。総司と原田が、転がるようにして飛び込んできたのは。 「土方さんっ」 大声で呼ばわりつつ、総司の身体は野獣のように跳躍した。手近のひとりを水もたまらず斬って落とし、囲みを破って土方に駆け寄る。 「――総司か」 声がかすれている。ひとりでこれだけの人数を相手にしていたのだ。さすがの土方も、返事をする余裕がなかったのであろう。 「なんとか間に合いましたね」 「千穂が撃たれた。俺をかばって」 「千穂さんが――?」 土方が目線で指し示した向こうに、千穂は血を流して倒れていた。 その姿を眼にしたとき、総司は頭の中からすうっと血が引いていくのを感じた。すべての感情は凍りつき、代わりに冴え冴えとした殺気が全身を包んでゆく。次の瞬間、そこにはおそろしく冷徹な表情の若者が立っていた。 「沖田総司――君か。久しぶりだね」 聞き覚えのある声がした。 「あなたは、――桂さん」 土方を取り囲む一団から少し離れた木の陰に、その男はいる。桂は右手に短銃を構え、ひきつるような笑みを浮かべていた。 「千穂さんを撃ったのは、あなたですね?」 「土方歳三を狙ったんだがね」 ――許さない! 総司の身体から、殺気が青白い炎となって揺らめいた。刀を平青眼にかまえたまま、静かに下駄を脱ぐ。 「新選組、沖田総司。参る」 しなやかな肉体が跳ねた。 ひとりを右袈裟。ひとりを逆胴。死体が地に転がるより早く、もうひとりを得意の突きで仕留める。 総司の跳ぶところ、血の飛沫が虹をえがいて宙に舞う。あっという間に三人の浪士が倒れた。 原田も、地響きするような掛け声をあげて奮戦している。 「くそっ。――引けっ!」 思わぬ助勢の出現に気勢をそがれたか、刺客たちは、ばらばらっと逃げ散った。 「逃すかっ」 総司は桂の立っていた方向に走ったが、すでにそのとき、桂小五郎の姿は木立の闇にまぎれ去っていた。 絶命五人。傷を負って倒れている者三人。逃げた浪士は六人余りであろう。 「千穂――!」 土方は千穂に駆け寄り、抱き寄せた。血の気の失せた女の顔には、すでに死相が現れている。 「歳三さま……」 睫毛が揺れ、潤んだ眸が土方を見上げた。 「千穂。――許せ」 いいえ、とかぶりを振るようなしぐさをみせて、千穂はかすかに微笑した。 「今度生まれてくる時は、きっと、あなたさまの……妻に……」 最後の言葉は、聞き取れなかった。 必死に追いかけたものの、ついに桂小五郎を捕らえることはできなかった。 総司が皆のところに戻ったとき、千穂はすでに息をひきとっていた。土方はむっつりと押し黙ったまま。原田は困惑した顔で立ち尽くしている。 最悪だ。 総司は幾度も、かみしめた唇をかみ破ってしまいたい衝動に駆られた。 「総司。おめえ、知ってたな?」 振り向いた土方の眸に、ぞっとするような冥い翳がある。 「千穂が……、この女が、長州の間者だと知っていたんだろう?」 「ちがう。千穂さんは間者なんかじゃありませんよっ」 いいたいことは山ほどある。が、心ばかり焦ってうまく説明できない。土方は、そんな総司から眼をそらした。 「左之助、すまねえが後をたのむ」 「―――?」 「刺客はおそらく長州だろう。全部で十四、五人はいたようだ。俺ひとりのためにご大層なこった。ご苦労だが、番屋へ知らせて、後の手配を見届けてくれ」 「トシさん、待てよ! このひとはあんたの知り合いなんだろ?」 土方はそれには答えず、くるりと背を向けると歩きだした。 「おい、土方さん!」 追いかけようとした原田を、総司が押し止どめた。すがるような双眸が、原田をみつめている。 「左之さん、ごめん。後のこと、よろしくたのみます。土方さんは、わたしが必ず連れて帰るから……」 総司の気迫に、原田は気圧された。 「何だかよくわからねえが、お取り込みらしい。――まあ、仕方ねえか。総司、早く行ってやんな」 総司は小さく頭を下げてから、土方の後を追っていった。 ひとり取り残された原田は、たくさんの死骸と重傷者(しかも罪人である)を前にして ため息をついた。 ――おっつけ屯所からもひとが来るだろうが……。どうやら今夜も、おまさのところには泊まれそうにねえな。 「おお、寒……」 胴震いして見上げた空には、月も星も見えない。春とは名ばかりの夜気の冷たさであった。