掌上の雪 −沖田総司残照−

十一章 凶弾


小半刻、楓樹の間をあてもなく逍遥して、ようやく八坂神社の境内までおりてきた総司は、そのとき偶然にも、遠くの茶店の縁台に土方の姿を見た。
「―――!」
あわてて声を飲み込んだのは、横にすわっている千穂に気づいたからである。
土方は談笑している。幼いころから一緒に暮らしてきた総司でさえ、見たことのないような穏やかな笑顔だ。新選組の者が見れば、別人だと思うであろう。
(歳三さん――。あんたは一度だって、そんなふうに俺に甘えてくれたことはないね……)
いたたまれなくなって、そっとその場を離れた。四条大橋まできて、橋の上から河原を歩いている千鳥の姿を目にしたとき、ふいに涙がこぼれそうになった。
総司は立ち止まり、長いこと欄干にもたれて、冷え冷えとした鴨川の流れを見つめていた。道行く男たちが、この寒空に何を物好きな、という顔で振り返っていく。ひとつ、ふたつと、川の向こう岸に灯りはじめた明かりの色が胸にしみた。
ようやくのことで、総司は西に向かって歩き始めた。

四条大橋を越えたところに、木屋町の番屋がある。何げなく通り過ぎようとして、総司は立ち止まった。自分を呼ぶ声がしたのである。
番小屋の中から顔を出したのは、原田左之助だった。
「あれ? ――総司、土方さんと一緒じゃあなかったのか?」
「え?」
「いや、昼ごろ清水坂のあたりで見かけたんだが、お前さんと会うようなこと言ってたからさ」
「ふーん……?」
総司は、何げない顔でとぼけてみせた。
「土方さんのことだもの。どうせまた、女の人のところでしょ。わたしはそういう時だけ、ダシに使われる」
思いきり唇をとがらせてみせる。昨日からの女々しい自分が、妙に腹立たしくてならない。
「そういう原田さんこそどうしたんです、こんな所で?今日は非番だから、一日おまささんのひざ枕で羽根を伸ばすんじゃなかったんですか?」
「いやあ、俺もそのつもりだったんだが」
原田は、照れ臭そうに鼻の頭にしわを寄せて笑った。
原田左之助は京に来てから、祇園の茶屋で仲居をしていたおまさという女と所帯を持った。おまさは、四条木屋町から少し西に入ったところに住んでいる。この番屋のすぐそばだ。
「実を言うと、昼過ぎからおまさのところで飲んでたんだがな……。つい先刻、顔見知りの地廻りから妙な知らせがあって、飛び出してきたんだ」
それによると、建仁寺の境内に長州者らしい浪人十数名が集まり、不穏の動きがあるという。
「今、屯所に使いをやったところだ。新選組がどうのとか、土方がどうのとかいう話をしていたらしい」
「長州か。池田屋以来、恨まれてますからね。とくに土方さんは……」
そこまで言って、急に総司は顔色を変えた。
(まさか――?)
「左之さん、建仁寺って言ったね?」
建仁寺は祇園の南にある禅寺で、八坂神社とは目と鼻の先にある。
突如、
「あーっ、歳三さん、やばいよおっ!」
総司の喉元から悲鳴に近い声がもれた。
「左之さん、行こう!」
言った時には、すでに足は東に向かって駆け出している。
「ど……どこへ? どうしたってんだっ、おい総司!」
「行き先は八坂神社。とにかく早くっ!」
振り向いた総司の血相が変わっている。つられて原田も、番小屋の提灯をふたつ、ひったくるようにして後を追った。
「今は説明してる暇ないんだ。早く行かないと、鬼の副長がホトケになっちまうよっ」
「なんだって――?」
何のことやら原田にはわからない。総司に引きずられるようにしながら、暮れなずんでくる四条通を、ものも言わずに走った。
(うかつだった……。歳三さんにもしものことがあれば、すべて俺のせいだ!)
なぜ、気づかなかったのだろう。たとえ千穂が間者でなくとも、そこを見張ってさえいれば土方は必ずやってくる。罠を仕掛けるつもりなら、いつでもできるのだ。

――どうか、無事で……!

総司は生まれて初めて、人間を超えた存在を思った。そして、心の底からその恩寵を祈りたかった。

息せききって祇園八坂神社の石段下までたどりついた時、境内にはすでに夕闇が迫っていた。
先刻、土方と千穂の姿を見かけた茶店は、早々と戸を降ろしている。
「どこへ行ったんだろ?」
「だから、いったい、何だってんだ?」
息をきらして、原田がぼやく。それにはかまわず、総司は血眼になって二人を捜した。が、人気のない境内はしんと静まりかえっているばかりである。

――俺の思い過ごしなら……。

そうかもしれない。土方と千穂は、すでに何事もなくこの場を離れているのかもしれない。そうであってくれ、と念じたそのとき、社の奥のから銃声が響いた。総司と原田は、弾かれたように顔を見合わせた。
「左之さん、上だっ!」
「おう! 行くぞっ」
二人が駆け出している頃、土方歳三は、神社の奥宮へ続く疎林の中にいた。
千穂の身体を抱き取るように支えた土方の周りを、刺客の一団が取り囲んでいる。千穂は傷を負っていた。
「千穂! しっかりせい」
「………」
唇がわなないたが、声にならない。胸元が赤く染まっている。土方を狙った銃弾が、咄嗟にかれをかばった千穂の胸を貫いたのだ。
「亭主の仇をかばって撃たれるとは、馬鹿な女だ」
「桂――! きさまっ」
短銃を撃った男。刺客たちを指揮している頭目は、長州の桂小五郎だった。
桂は試衛館時代の土方を知っている。もちろん、名もない三流道場の師範代としての土方歳三を、である。その眼には激しい怒りと侮蔑の色があった。
土方は千穂をそっと地面に降ろすと、佩刀和泉守兼定を抜いた。青眼に構える。
刺客たちは、じりじりと間合いをつめてくる。皆、かなりの使い手らしかった。土方には盾に取る一本の木もない。わきの下を冷たい汗が濡らした。
――突。
土方の足が地を蹴った。
一番手薄なところをめがけて踏み込む。振りかぶった剣が、電光のような遠さで相手の籠手を襲う。右手首が宙に飛び、男は声もあげずにその場にうずくまった。
囲みを切り崩し、木を背にする。それ以外にこの窮地を脱する術はない。
土方は前ヘ、前へと出た。それにつれて、刺客の輪も移動していく。
桂はゆっくりと、次の弾丸を込めた。
その時である。総司と原田が、転がるようにして飛び込んできたのは。
「土方さんっ」
大声で呼ばわりつつ、総司の身体は野獣のように跳躍した。手近のひとりを水もたまらず斬って落とし、囲みを破って土方に駆け寄る。
「――総司か」
声がかすれている。ひとりでこれだけの人数を相手にしていたのだ。さすがの土方も、返事をする余裕がなかったのであろう。
「なんとか間に合いましたね」
「千穂が撃たれた。俺をかばって」
「千穂さんが――?」
土方が目線で指し示した向こうに、千穂は血を流して倒れていた。
その姿を眼にしたとき、総司は頭の中からすうっと血が引いていくのを感じた。すべての感情は凍りつき、代わりに冴え冴えとした殺気が全身を包んでゆく。次の瞬間、そこにはおそろしく冷徹な表情の若者が立っていた。
「沖田総司――君か。久しぶりだね」
聞き覚えのある声がした。
「あなたは、――桂さん」
土方を取り囲む一団から少し離れた木の陰に、その男はいる。桂は右手に短銃を構え、ひきつるような笑みを浮かべていた。
「千穂さんを撃ったのは、あなたですね?」
「土方歳三を狙ったんだがね」

――許さない!

総司の身体から、殺気が青白い炎となって揺らめいた。刀を平青眼にかまえたまま、静かに下駄を脱ぐ。
「新選組、沖田総司。参る」
しなやかな肉体が跳ねた。
ひとりを右袈裟。ひとりを逆胴。死体が地に転がるより早く、もうひとりを得意の突きで仕留める。
総司の跳ぶところ、血の飛沫が虹をえがいて宙に舞う。あっという間に三人の浪士が倒れた。
原田も、地響きするような掛け声をあげて奮戦している。
「くそっ。――引けっ!」
思わぬ助勢の出現に気勢をそがれたか、刺客たちは、ばらばらっと逃げ散った。
「逃すかっ」
総司は桂の立っていた方向に走ったが、すでにそのとき、桂小五郎の姿は木立の闇にまぎれ去っていた。
絶命五人。傷を負って倒れている者三人。逃げた浪士は六人余りであろう。
「千穂――!」
土方は千穂に駆け寄り、抱き寄せた。血の気の失せた女の顔には、すでに死相が現れている。
「歳三さま……」
睫毛が揺れ、潤んだ眸が土方を見上げた。
「千穂。――許せ」
いいえ、とかぶりを振るようなしぐさをみせて、千穂はかすかに微笑した。
「今度生まれてくる時は、きっと、あなたさまの……妻に……」
最後の言葉は、聞き取れなかった。

必死に追いかけたものの、ついに桂小五郎を捕らえることはできなかった。
総司が皆のところに戻ったとき、千穂はすでに息をひきとっていた。土方はむっつりと押し黙ったまま。原田は困惑した顔で立ち尽くしている。
最悪だ。
総司は幾度も、かみしめた唇をかみ破ってしまいたい衝動に駆られた。
「総司。おめえ、知ってたな?」
振り向いた土方の眸に、ぞっとするような冥い翳がある。
「千穂が……、この女が、長州の間者だと知っていたんだろう?」
「ちがう。千穂さんは間者なんかじゃありませんよっ」
いいたいことは山ほどある。が、心ばかり焦ってうまく説明できない。土方は、そんな総司から眼をそらした。
「左之助、すまねえが後をたのむ」
「―――?」
「刺客はおそらく長州だろう。全部で十四、五人はいたようだ。俺ひとりのためにご大層なこった。ご苦労だが、番屋へ知らせて、後の手配を見届けてくれ」
「トシさん、待てよ! このひとはあんたの知り合いなんだろ?」
土方はそれには答えず、くるりと背を向けると歩きだした。
「おい、土方さん!」
追いかけようとした原田を、総司が押し止どめた。すがるような双眸が、原田をみつめている。
「左之さん、ごめん。後のこと、よろしくたのみます。土方さんは、わたしが必ず連れて帰るから……」
総司の気迫に、原田は気圧された。
「何だかよくわからねえが、お取り込みらしい。――まあ、仕方ねえか。総司、早く行ってやんな」
総司は小さく頭を下げてから、土方の後を追っていった。
ひとり取り残された原田は、たくさんの死骸と重傷者(しかも罪人である)を前にして ため息をついた。

――おっつけ屯所からもひとが来るだろうが……。どうやら今夜も、おまさのところには泊まれそうにねえな。

「おお、寒……」
胴震いして見上げた空には、月も星も見えない。春とは名ばかりの夜気の冷たさであった。


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