掌上の雪 −沖田総司残照−

十章 春雷は夜空を斬り裂く


日が落ちると、凍えるように寒くなってきた。壬生寺の本堂から誦経の声が響き、その声に追われるように、総司は寺を離れた。
屯所に戻ると、すでに、山南が処断された跡はきれいに片付けられていた。
逃れるように自室に向かった。苦い思いとともに、小さな咳があふれた。押さえた袖口に血がにじんでいる。ここしばらくは小康状態だったのだが、数日来の寒さと、山南を追ったときの無理がたたったのかもしれない。
それを、土方に見られた。つかつかと部屋にはいってきた土方は、あわてて障子を閉めると、刺すような視線で総司を見た。
「総司。おめえ、江戸へ帰れ」
「え?」
一瞬、息がとまった。土方が何を言っているのかわからない。
「冗談……」
「は、言ってねえ。近藤さんとも相談の上だ。江戸へ帰って養生しろ」

――江戸へ帰る? 新選組を抜けて、土方や近藤と別れて?

混乱する頭の中で、その言葉の意味を理解した瞬間、総司は身体中の血が逆流するのを感じた。
「局中法度書――」
うわごとのように、言葉が口をついて出る。
「ひとつ、局を脱するを許さず。――わたしはまだ、切腹するのはいやですよ」
「病人は特別だ」
「土方さん!」
総司の双眸に、激しい怒りが燃えた。
「今さらわたしにだけ、この修羅場から逃げ出せっていうんですか?それじゃ今日まで、わたしがこの手にかけてきた大勢の仲間に、どう言い訳するんです?」
「なあ、総司。養生さえすりゃあ、おめえの身体はきっとよくなるんだ。――頼む、江戸へ帰ってくれ。お光さんを安心させてやれ」
土方は、赤子を諭すように言い、総司のよく知っているやさしい眸をした。

――そんなの、ずるいよ……。

涙がこぼれた。
「俺は、大津で、山南さんに斬られて死ぬつもりだったんだ」
それなのに、山南は黙って屯所に戻ってきた。切腹を覚悟で。自分のために、総司を死なせることはできないと。
そして、ひとことの申し開きをすることもなく、従容として死についたのだ。
「歳三さんは知ってたんだね?俺が行けば、山南さんが戻ってくることを……」
「知っていたさ。山南には、おめえは斬れねえ」
「汚いよっ!」
魂をひきしぼるような叱責にも、土方はひるまなかった。
「総司、考えてみろ。伊東甲子太郎が来てから、組の規律がゆるんできている。人気取りか何か知らねえが、野郎が妙な恩情を見せたりしやがるからだ」
「………」
「新選組は元来が寄せ集めの集団だ。こいつをまとめていくためには、誰かがきちっと締めなきゃならねえ。少しでもゆるめれば、組織はそこからほころんでゆく。――今、もしここで、山南の脱走を見逃せば、新選組のタガそのものが吹っ飛んじまうんだ」
「それじゃ、山南さんは、そのみせしめになったっていうんですか?」
事実、この後、隊は粛然とした。局中法度は絶対であり、総長職にあるものでさえこれを犯すことは許されないということが、はっきりと示されたのである。

 一、士道に背くまじきこと。
 一、局を脱することを許さず。
 一、勝手に金策すべからず。
 一、勝手に訴訟取扱うべからず。
 一、私の闘争を許さず。
右条々相背き候者は、切腹申しつくべく候也。

五箇条からなる局中法度書が、恐怖をもって隊士たちの性根に浸透したのは、この時だったといっていい。

土方は、総司の詰問には答えず、翳のあるまなざしを虚空に向けた。
「総司よ。俺ァなあ、おめえも知ってのとおり、三十になるまで武州の田舎で、家業の薬を担いで行商に歩いてたんだ」
「―――」
「俺も近藤さんも、武士の出じゃねえ。多摩の百姓のせがれだ。浪人とはいえ、まがりなりにも武家に生まれたおめえにはわかるまいが――」
土方には、武士や武士道というものに対して、苛烈なまでのあこがれがあった。徳川三百年の泰平の中で、実際の武士階級がすでに失ってしまった士道の美学が、皮肉にも、農民出身であるこの男の内に、より純粋でストイックなかたちで結晶していたのである。
「俺は……、本物の侍になりてえ! この国のほかの誰よりも、武士らしい武士になりてえんだよ」
会津藩や徳川幕府には、自分たちを士分に取り立ててもらった恩義がある。それに応えるには、新選組を最強の集団として育てること、そして自らは、武士として生き、武士として死ぬことだ。
「俺は許さねえ。――新選組を潰そうとする奴は、それが誰だろうと斬るだけだ。組を守るためなら、俺ァ鬼にでも蛇蝎にでもなってやるさ」
総司は沈黙した。土方の心情を理解することはできる。なによりも、この男のそういう生き方に魅かれてきたのだ。
だが。
山南敬助のことだけは許せなかった。山南をあそこまで追い詰めたのは、ほかならぬ土方なのだ。すべては新選組のテコ入れのために仕組まれたことだったとは。
「そうとわかっていれば……、行かなかったんだ」
大津の宿で、総司を目にしたときの山南の驚きと失望、そして諦めの表情が、ありありと思い出された。
「歳三さんの馬鹿っ! 大っ嫌いだ」
ふん、と土方は鼻で笑った。
「言っただろう、総司。俺ァ、昔っから嫌われ者のトシだよ」
総司はこの時、心底、土方歳三を憎いと思った。こんな残酷な男になぜ心魅かれるのだろう?

「嫌われついでに、これだけは言っておく。とにかくおめえは、一旦江戸へ帰れ」
「いやだ!」
総司は駄々っ子のようにかぶりを振った。
「山南さんは江戸へ帰りたがっていた。伊東さんと示し合わせたり、何かを画策していたりしたわけじゃない。ただ、新選組を離れたかっただけなんです。その人を斬ったわたしが、自分だけ帰るわけにはいきませんよ……!」
いつの間に風がでたのか、障子の桟がカタカタと音をたてている。木々のざわめきの向こうに、遠く雷(いかづち)の音が響いた。

――山南のことは口実だ。本当は……。土方歳三と離れたくない、その一事ではないのか。

(これは八つ当たりだ……)
土方は、自分のことを大切に思ってくれている。だがそれは、身内として、仲間としての親愛の情だ。それだけで十分なはずだ、普通なら。
(俺は、普通じゃない――!)
愛されたかった。身も心も土方に奪い尽くされたかった。そんな暗い衝動に身体中が捉われそうになる。これまで最後のところで踏みとどまってきた自制心は、ただ土方に嫌われたくない、拒絶されるのが怖い、という思いからにほかならない。
雷鳴がしだいに近づいてくる。夜空に閃光が走り、総司と土方の顔に深い陰影を刻んだ。
「俺ァ辛いんだ、総司……。おめえのために何もしてやれねえ。おめえが毎日弱っていくのを、ただ見ているしかねえ自分が、情けなくってたまらねえんだ」
「そんな猫なで声出したって……!山南さんには、ひとかけらの情けもかけなかったくせに。とにかく、わたしは帰りませんからね。ここで逃げ出すくらいなら、死んだ方がましですよ!」
「――馬鹿野郎っ!」
総司の頬が鳴った。
土方は、恐ろしい表情で目をらせていたが、やがて、黙って出て行った。後ろ手で障子を閉めた土方の背中に、淋しげな翳がにじんでいるような気がしたのは、総司の思い過ごしだったろうか。

◇◇◇

ふいと出ていったきり、土方はその夜帰らなかった。
「副長が外泊とはめずらしい」
「さっき外から使いが来たそうだぜ」
「さては鬼にも、泣き所ができたか」
原田や永倉がおもしろそうに言いはやしているのを、総司はひとり部屋に閉じこもり、こどものようにひざを抱えて聞いていた。
土方にたたかれた左の頬が熱い。
(きっと、あのひとのところだ――)
総司はその夜、ほとんど一睡もせずに朝を迎えた。胸の中に、後悔が固い澱のようにたまっている。

非番の一日を所在なく過ごし、午後も遅くなってから、ふらりと屯所を出た。土方はまだ帰らない。
あてもなく歩いているうちに、かれの足はいつしか東に向いていた。四条大橋を渡り、八坂神社を南に下れば、五条坂。
土塀にはさまれた人気のない小路をたどりながら、自分が無意識に行こうとしている場所に気づいて、総司は愕然とした。
(俺は、馬鹿だ――)
五条坂を北にはいった千穂の住まい。そこに土方はいるだろう。だが、行ってどうなるというのだ――?
総司は立ちどまった。肩をすぼめるようにしてちょっと考えてから、いま来た道を引き返し、八坂神社を東へと抜けた。そこは真葛が原と呼ばれる東山の麓である。
春の日は西山に傾き、厚く重なった雲の間に淡い朱の色をにじませていた。眼下に広がる京の町は、すでに薄墨の中に沈みはじめている。
この時刻、あたりは人影も絶えて、総司はひとり、木立の中に取り残されたように立っていた。林の雑木はまだ芽もつけていない。寒々とした枝が、曇った空に突きささっているばかりである。
土方に背を向けられるのが、こんなにつらいことだったのか。春というには冷たすぎる西風が、総司の身体を吹き抜けていく。
ふいに、腰の菊一文字則宗が鞘走った。背後の枯れ枝が音をたてて落ちる。驚いたひよどりが二羽、あわてて灰色の空へ舞い上がった。
総司――。心中の何を斬ったのか。
斬ってもなお断ち斬れぬものがわだかまっている。


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