I LOVE 新選組

「燃えよ剣」 〜紫陽花〜お雪さん

紫陽花が好きだ。
ちょっと日陰の塀ぎわなどに、雨に濡れながらひっそりと咲いている姿は、つつましやかで、それでいて芯の強さを感じさせる。

のっけから花の話ですみません。ガラにもなく……。
というのも、私が紫陽花を好きになったのは、「燃えよ剣」を読んだからなのである。
土方歳三が想いを寄せる武家の未亡人、お雪。そのお雪が住む長屋の中庭に、紫陽花が咲いている。
「紫陽花は、狭い庭に似合いますな」
歳三の言葉は、皮肉ではない。
紫陽花のつましさは、市井の片隅でひっそりと生きているお雪の暮らしを写すと同時に、決して派手ではないが、しなやかで可憐な彼女の美しさを象徴しているといっていいだろう。
そして、六月のある雨の降る日、歳三は初めてお雪と結ばれるのだ。その舞台の脇役として、紫陽花の花が雨に濡れている――。
そんなシチュエーションが、スマッシュヒットで私のツボにはいり、私はまたもや司馬遼太郎氏の術中にはまってしまった。それ以来、紫陽花のパステルブルーを見ると、歳三とお雪の幸福なひとときを思い浮かべてしまい、紫陽花が大好きになったのだ。

「燃えよ剣」の主人公である土方歳三は、最初、相当の女好き(女たらし?)として描かれる。
それも一癖も二癖もある性癖で(別に変態というわけではありません、念のため)、身分の高い女が好みなのだ。貴種が好き、というのは豊臣秀吉もそうだったが、一種のステータスシンボルなのだろうか。
自分には手の届かないような身分の女に憧れ、それを手に入れようと手を尽くす。最初から恋が目的ではないのだから、女を我が物にし願いを遂げてしまうと、気持ちは一気にしぼんでしまう。
それが、歳三の女性関係をずっと不幸なものにしてきた、と司馬さんは言うのである。
そんな歳三が、お雪にだけは本当の恋をする。悲しくなるほど好きなのに、抱くことができないのだ。
お雪は身分の高い女でもなんでもない。かつての歳三なら見向きもしなかっただろう。これまでさんざん女性遍歴を繰り返してきた歳三が、お雪を単に征服欲を満たすためだけの対象として見ることができなかったのは、心の底から相手のことを大切に、愛しく思っていたからこそ。
物語も中盤になって、歳三がようやくそういうひとにめぐり会えたことを、読者である私たちも本当にうれしく思うのである。

最初、「燃えよ剣」を読んだときは、悲しくて悲しくてどうしようもなかった。特に後半は、歳三の悲劇的な生涯に加速度がついて転がっていくようで、悲しいシーンばかりを覚えていたような気がする。
そんな中、大阪、箱館でのお雪との逢瀬は、悲しみの中の一瞬のやすらぎにも思えて、けれどもやっぱり悲しくて……。
不思議なもので、二度三度と読み返していくうちに、決して悲しいばかりの話、悲壮なだけの歳三の生涯ではないということに気がついたのだが。
何よりも、戦っているときの歳三は生き生きとしている。楽しんでいる、といってもいいかもしれない。
鳥羽伏見の戦いで、敵の銃弾が飛び交う中、土塀の上にあぐらをかいて、「おれにゃあたらねえ」とうそぶく歳三。宮古湾海戦で、甲鉄艦を乗っ取りに斬り込む歳三。二股口を死守し、押し寄せる官軍をことごとく撃退する歳三。
悲壮でもなんでもない。嬉々として戦う男がそこにいる。喧嘩師としての情熱のすべてを燃やし尽くして――。

やっぱり、土方歳三が好きだ。
戦う男が好きだ。ひたすら前を向いて、走り続ける男が好きだ。
この季節、路地裏などにひっそりと咲く紫陽花を見るたび、まっすぐに風のように駆け去っていった男と、その男を追い続けた女を思い出す。
――お雪さん。
それがまったくの司馬遼太郎氏の創作の産物だったとしても、これ以上歳三にふさわしい女性はいないと思うのは、私だけではないだろう。