I LOVE 新選組

山南敬助の謎

――新選組総長 山南敬助。
あなたのことが、なぜかずっと心に引っかかって離れません。


新選組といって思い浮かぶのは、近藤勇、土方歳三、沖田総司……。このあたりなら、特にファンの方ではなくても、名前ぐらいはご存じの方も多いかと思います。
更に、芹沢鴨や斎藤一、原田左之助など、結構マイナーな人物が好きだという方も増えましたね。特に前述の山南敬助は、それほど知名度が高い人ではなかったのに、ここ数年ネットでもよく見かけるようになりました。これは、やはり大河ドラマの影響が大なのかもしれません。
私は「新選組!」はあまり見ていなかったので、それほど印象に残っているわけではありませんが、このドラマで山南さんを演じておられた堺雅人さんは、なかなかにはまり役だったようです。
これまでは、何となく人が好くて、頭でっかちで、運命に流されて悲劇的な最期を迎えた……くらいの、どことなく線の細い人物といった印象だった山南敬助ですが、堺さんが演じると、ちょっと懐の読めない謎めいた人物として、これまでにない新しい山南の魅力が表現されていたのかなあと、みなさんの声を聞いて想像しています。

さて、その山南敬助についてですが……。
実は、かくいう私自身、ず〜〜っと大昔から気になっている隊士の一人なのです。それこそ「超」がつくくらい大昔、新選組にどっぷりだった高校生の頃、歴史研究部のレポートに山南さんを取り上げたことがあるといったら、「山南さん気になる歴」の古さ(笑)が分かっていただけるかもしれませんね。
あえて「気になっている」という書き方をしたのは、未だにこの人の真意がよく分からないから。
そして、人間的な魅力といった部分でも、どうしても土方歳三や沖田総司のような強烈な個性の持ち主たちの前では、少々かすんでしまう気がするからです。
ものすごく好き、というほどでもなくて。
結局、何をしたかったのか、新選組や自分自身の存在についてどう考えていたのか、もうひとつ彼の気持ちが読めなくて。
悲劇的な最期も、なぜああいう経過をたどってあの結末だったのか、が未だに分からないし。
何もかもはっきりしないまま、ただ悲しさばかりが心に残ってしまう人……かなあ。
それでも、追手である沖田と大津の宿でどんな一夜を過ごしたんだろうとか、切腹する直前、恋人だった明里との別れ、格子窓越しに何を話したんだろうとか、妙に気になるし、しかも絵になる人なんですよね。
肝心の脱走の真相については、諸説あるようですが、結局のところ藪の中です。歴史研究部のレポートでも、ごく情緒的な、曖昧なことしか書けませんでした。何も分からずじまいなのは、当時も三十年以上経った今も変わりませんけれど……。

どうして何も言わず、何の行動も起こさず、ただ黙って脱走したんだろう?
どうして追手が、沖田ひとりだけだったんだろう?
どうして大津方面に向かったことが分かったんだろう?
しかも、あんなにすんなりと沖田が山南を見つけることができたのはなぜ?
書置きには「江戸へ帰る」としか書かれていなかったのに。
山南が何の抵抗もせずに、おとなしく屯所へ戻ってきた訳は?
彼が切腹するのを、なぜ伊東甲子太郎は止められなかったのか?
なぜ? なぜ? なぜ?
数々の疑問に明確に答えられるものを、私は何一つ持っていません。

もしかしたら……。
山南は脱走したのではなくて、自分自身の進退も含めて、これからの新選組のあり方について、近藤と話し合いをしたかったのではないでしょうか。
新興勢力である伊東一派と手を組んで、近藤ら試衛館一派を追い落とす、という選択肢もあったはずです。何より同じ北辰一刀流ですし、思想的にも山南と伊東はかなり近いところにいたように思われます。
でも、彼はその方法は取りませんでした。どうしても、近藤を、試衛館の仲間たちを裏切ることができなかったのかもしれません。
思い悩んだ末、山南は近藤ともう一度肚を割って話し合いたいと願い、それに最後の望みを託したのでしょう。脱走を装ったのは、彼なりの必死の覚悟を近藤に訴えるためだったようにも思えるのです。
けれども、近藤はそこへは行かず(どんな思惑があったのか、あるいは土方の差し金だったのか?)、代わりに追手として沖田を差し向けました。山南の訴えをはっきりと拒絶したのです。
大津の宿に現れたのが近藤ではなく沖田だと知ったとき、山南はすべてが終わったと感じたことでしょう。あるいは沖田は、彼なりの配慮で、山南にこのまま逃げるようにと勧めたかもしれません。けれど山南は、とてもそんな気持ちにはなれなかったのではないでしょうか。
――京を離れて、新選組を抜けて、どこに我が身の置き所があるというのか?
絶望のまま、屯所に帰り、そして従容として切腹して果てた……。

そんなドラマを思い描いています(あくまでも想像でしかありませんが)。
これも、どなたかの説をどこかで拝見した記憶かもしれないのですけれど。
いつか、山南さんの最期を書くことがあれば、こんな話になるかもしれないなあと、今は漠然と考えています。


山南敬助が死んだのは、元治2年2月23日。今の暦に直すと3月20日になるそうです。
今年は特に暖冬で春の訪れが早く、もしかするとその頃には、桜もちらほら咲き始めているかもしれません。けれども、これは例外。
京の春はいつも気まぐれで、3月になってからも、寒の戻りで雪がちらつくような日もあります。
私には、山南さんが切腹して果てた日も、壬生の里には遅い春の淡雪が舞っていたように思えてならないのですが……。
格子に取りすがって泣き崩れる明里の肩に、髪に、舞い落ちる雪。地面に落ちるか落ちないかのうちに溶けて消えてしまう、はかない幻。
この世の出来事は、すべて夢まぼろしの如く――。春に降る雪は、冷たく悲しいのです。