今月のお気に入り


佐和山LOVE
(戦国無双2より)


関ヶ原に、義の旗を打ちたてよ!
このページを見て、「ああ〜、やっぱり!」と思われた方も多いのではないでしょうか。
今月のお気に入り……というより、リアルタイムで今まさにどツボにはまっているもの。
拙サイトやブログにお越しくださっている方なら、とっくにご存じですよね(苦笑)。
本来なら、ゲームとしての『戦国無双』を取り上げるべきなのでしょうが、実際のところ、まだすべてのステージをクリアしているわけではありませんし、ゲームそのものについて語れるほど、知識が深いわけでもないのです。
ただもう、ひたすら「ちゃー」(石田三成)と「さこにゃん」(島左近)の主従コンビが好き!というだけなんですよ〜。なので、今月のお気に入りは、あくまでも(無双仕様の)佐和山主従についてということで、熱い胸の想いを語ってみたいと思います。
※ちなみに作業用BGMは「パチスロ戦国無双」(笑)。

◆何でいまさら三成?

それにしても、ゲームから入ってこんなにはまってしまうなんて、自分でもびっくり。
元々『戦国無双』シリーズには、まったく興味がなかったのです。そんな私がどうして?っていうとですね、ほんの連休の間の暇つぶしにと思って買った『無双OROCHI』のせいなんですよ。ほんとに何気なく買ったゲームなのに(『三国無双5』でリストラされちゃった姜維に、もう一度会いたいなあ〜っていう気分だったんですよね……笑)、これがなんと大当たり!!
いや〜、はまりましたわ〜。
正直、『三国無双』はもうやり尽くした感があったのですけど、『戦国無双』のキャラは初めてなので、みんなすごく新鮮に見えたのかもしれません。
初めて『三国無双』をやった時も、その斬新なキャラ設定やストーリー展開に目を見張った(目が点になった?)ものでしたが、それでも三国志に関しては、それまでに自分なりのある程度の素地があったので、それほどゲームのキャラやストーリーに、まんまはまってしまうということはありませんでした。もちろん、思いがけず、新しい見方や魅力に目覚めさせられた、というのはいくつもありましたが。
それが、今回は……。
やべー……。(^_^;)
これは、本気でやべーかもしんない。いや、マジで。
いやはや、気がついたら『無双OROCHI』から『戦国無双』にころりとすべって、私としたことが(娘に影響されたんでしょうか?)見事に石田三成という人物にはまってしまっていました。


それにしても、なぜ今になって(無双設定)石田三成なのか。
決して、ビジュアルがどうとかじゃなくてね……。いやまあ確かに、ビジュアルも含めて(笑)、すべてをひっくるめた三成の人物造形がツボだったわけですが。
実を言うと、元々嫌いではなかったんですよ、この人。
むしろ関西人なら、徳川家康が嫌いで、その家康に真っ向から立ち向かって玉砕した石田三成っていう人物には、何となく親近感があるという人が多いのではないでしょうか。
私も戦国の三英雄(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の中では、やっぱり豊臣秀吉が一番好きだし、アンチ家康という感じで、関ヶ原でも西軍びいきでした。
三成というと、どうも陰険で冷酷で小賢しいっていうイメージがあるようですが、私自身はそういう悪いイメージはあまり持っていませんでしたし。
どちらかというと、秀吉に出した三杯のお茶のエピソードや、処刑される前に柿を断ったというエピソードなどから、非常に頭が切れる上に、生真面目で一本気で、義や忠節を大切にする人、という「いい」印象を持っていたんですね。
『戦国無双2』の三成は、性格はちょっとグレーですが(というか素直になれないツンツンキャラで、そこがまたかわゆいわけでして)、「義を貫く信念の人」というスタンスで、なかなかかっこいいのです。最期まで理想を追い続けて、夢とともに散った人、というどこかしら姜維に似たものを感じさせるところが、結構ツボでした。
そうこうするうちに、私以上に「無双三成」(←我が家では『ちゃー』と呼んでいます)にはまってしまった娘に引っ張られる感じで、いろいろと調べたりしていくと……。
そこに浮かび上がってきたのは、見事に、私の大好きな姜維と重なる一人の男の姿だったのです。


豊臣恩顧の大名や家臣たちが皆、雪崩を打つように家康へとなびいていく中、ただ一人、毅然として秀吉への忠誠を貫き通した三成。その「義」を愛する心の、不器用なまでの一途さ。
関ヶ原で敗れた後、潔く自害しなかった臆病者と謗られながら、それでも最期まで望みを捨てなかった彼の姿には、成都陥落に際して死なずに生き延びたと非難されながらも、最後まであきらめずに、起死回生の秘策を賭けて戦い抜いた姜維の最期が重なります。
まさに、枯れてなお己の生き様に執着する梅花のごとく……。(T_T)
さらに、関ヶ原の敗戦の後、三成の居城であった佐和山城もまた、東軍に攻められて落城します。徳川方の兵士たちは、「栄華を極めた三成の城は、さぞ華美を極めたものだろう」と我先に城内へと乱入しましたが、城は非常に質素なつくりで、装飾品も財貨もなく、そこにあったのは秀吉から送られた感謝状のみだったと伝えられています。
これって、これって……。まったく姜維そのまんまじゃありませんか。
富貴を求めず、栄達を望まず、贅沢もせず、楽しみももたず、ただただ義を貫くことだけを目指した、孤独な闘う男の姿。
わ〜ん。……悲しいよ、三成。(>_<)
かれも、不器用なくらいまっすぐな生き方しかできない人だったのですね。
そう、私の大好きな「分かっていて貧乏くじをひいてしまうタイプ」。
知れば知るほど、三成と姜維の近しい部分が見えてきて、我ながら驚いています。
二人とも、根はすごく真面目で堅物な人だったのでしょうね。その分、世渡りが下手で、不器用だったのかと。まあ、あまり人間的な面白味がある人ではなかったようですから、人望が薄かったのもやむをえないかもしれません。
姜維も三成も、ごく一部の相手を除いては、人間関係が希薄な印象を受けます。どちらも惚れこんだ相手にはとことん惚れこむくせに、他の人たちの間を上手に立ち回ることができなくて、派閥を作ったりするのも苦手そう。どうしても、孤高の人というか孤独なイメージがつきまとってしまうのはなぜでしょうか。
そういうところが、またまた私にはツボだったりするのですけれど。……まったく、困ったもんだ。(^_^;)
★お気に入りMAD 「つわものどもが夢のあと」


◆石田三成に過ぎたもの 島左近

さて、これほど無双の三成ストーリーにはまった理由のひとつには、三成の重臣である島左近の存在が大きかったりします。
実際の島左近は、三成より二十歳くらい年上なので、関ヶ原で討ち死にしたときはもう六十歳を超えていたのですが、無双設定では、見た目三十代後半(?)、男盛りの渋くてステキなおっさんです(笑)。
左近が地元奈良県出身というのもうれしい限りなのですが、三成と左近の主従の絆の強さに、まずは感動。島左近の章をプレイしている間中、娘ともども、さこみつコンビ(佐和山主従)の一挙手一投足にもだえまくりでした。
まず最初、筒井家を牢人した左近に、仕官を頼みに来るときの三成が、そりゃもうめっちゃかっこよくてね〜〜。
「俺が買いたいのは、不義に怒り高禄をけった志だ」
と、左近に熱烈ラブコール。さらに、四万石の自分の知行のうち、半分の二万石出そう、と言うんですね。主人と臣が同じ禄になりますよ、と驚く左近に、
「同禄でもかまわぬ。俺がほしいのは、同志なのだからな」と、とどめの一言。
これで、左近は命を懸けて三成に仕える決意をするのです。
ところで、無双の三成って、典型的なツンデレなんですよね。普段から変にツッパッてるので、素直に感情を顔に出せないんだけど、心は思いっきり震えてる。そのくせ態度はあくまでも横柄で、憎まれ口ばかりたたいてしまうわけですが、そんな三成の本心をちゃんと分かってくれる左近が、これまた何とも男らしくてかっこいいんです。
どんなにがんばっても、いつもいっぱいいっぱいで、結局はガキな三成を、大きく包み込んでくれる大人な左近。主従というよりはもうちょっと近い、二人のこの距離感がたまりません。
さらにさらに、左近に対する三成のツンデレ具合が、もうっ……。かわいくてかわいくて、思わずジタバタしちゃうほど愛しいよっ。
だって三成ったら、ほかの武将をほめる時には、まったく感情のこもらない声で冷淡に棒読みなのに、左近にだけは、「左近、頼りにしている」な〜んて、ちょっとはにかみながら言ってる感じがミエミエなんですもの(←邪推?)。
関ヶ原の戦場でも、左近にだけは「俺は、勝ちたいのだ!」って泣きそうな顔を見せたり、戦況に苛立った三成が左近に向かって「俺が負けると思うなら、勝つ方へ行けばよい!」って思わず八つ当たりした後で、「左近が殿を見捨てるとお思いか」と突っ込まれ、「知っている……。すまない、左近」としゅーんとしたりして、かわゆいったらありませ……強制終了。
(←どうも、だんだん脳ミソが崩壊してきたようです。ゲームプレイ中は、ずっとこのテンションだったものですから)


石田三成が島左近を同禄の二万石で召し抱えたという逸話には諸説あって、どこまでが史実なのか定かではありませんが、そんなエピソードが生まれるほど、三成が左近を大切にしていたということなのでしょう。
当時の島左近は、「三成に過ぎたるものが二つあり 島左近と佐和山の城」と謳われた、世間に名の知れた軍略の天才でした。そんな左近が、生涯をかけて三成に仕え、関ヶ原では最後の最後まで勇敢に戦ったわけですから、やはり石田三成という人は、それなりに魅力のある人物だったのではないかと思うのです。
ゲームの中の左近の独白で「俺に過ぎたものが二つある。石田三成と二万石だ」って言うセリフがあるんですよ。残念ながら、私はまだゲーム中でこのセリフを聞いたことはありません(←どうやったら聞けるのか、ご存じの方がいらっしゃったらぜひご教授ください!)が、日参しているニコニコ動画のMADでは、この後に「よき主に巡り会え、楽しき人生だった」と続くんですけど、これって、もしかして死亡フラグなのでしょうか?
関ヶ原を東軍でプレイしたら、このセリフが聞けるんだろうか。でも、結果がすごく悲しそうなので、見たくない。結局のところ、三成も左近も死んじゃうんだろうなあ。
わ〜ん。左近、かっこいいよ、左近。マジ泣ける……。(/_;)
そんなこんなで、怒涛の勢いで、日々佐和山主従の魅力にはまっています。
★お気に入りMAD 「理想の果て」


もうひとつ、『戦国無双2』の中で三成の存在を際立たせているのが、石田三成、真田幸村、直江兼続の、いわゆる「義トリオ」と呼ばれる義で結ばれた3人の友情です。
三成は、数の論理が支配し、利害だけで動く戦国の世に、厳然と「義」の旗印を打ちたてようとしました。その志に同意して、固い友情で結ばれた同志が幸村と兼続なんですね。
彼らは「義の勝利」を信じて家康と戦いますが、結局、三成率いる西軍は関ヶ原で敗北、捕えられた三成は京の六条河原で斬首されてしまいます。

「一人が皆のため、皆が一人のために力を尽くす、それが義だ」と、私の友が言っていたから――。

残された幸村、兼続は、三成の死を乗り越え、友の志を継ごうとするのですが……。
まず三成の章をやって、次に左近の章をクリアして。(この二人でやると、西軍勝利でめでたしめでたしのお話になります)
さらに、真田幸村をやって、直江兼続をやって、前田慶次もやって。(ここでは、史実のとおり関ヶ原で西軍が破れ、三成は処刑されてしまいます)
三成をめぐる人々をほぼクリアして、関ヶ原での西軍ストーリーを俯瞰的に眺めることができたとき、改めて背中の毛がそそけだつほど感動しました。
実際には、直江兼続はともかく、真田幸村と三成の間にそれほど親交があったかどうかわかりません。年齢も少し離れていますしね。むしろ三成の親友といえば、大谷吉継の方が一般的によく知られています。
でも、ここで幸村と兼続を出したのは、きっと三成亡き後にも、その志は二人によってしっかりと受け継がれていったのだ、ということを(製作者が)言いたかったのだろうと思います。
★お気に入りMAD 「受け継がれてゆくもの」


◆三成の名誉回復をめざして

さてさて、このあたりで少し頭を冷やして、と。
皆さんは、石田三成というとどんなイメージを持っておられますか?
一般的には、小ずるい策謀家、戦下手、陰険で傲慢な虎の威を借る狐、そのためまったく人望がなく、関ヶ原でも勝てなかったのだ……といったところでしょうか。
でも、これは、あくまでも関ヶ原の勝者である徳川側から見た評価であり、徳川家康の豊臣家からの政権奪取を正当化するために、ことさらに不当に貶められたふしがあります。
その後創られたさまざまな小説やドラマの中でも、このラインをなぞっているものが多く、本当に損をしてきた人だなあと思わずにはいられません。
私自身は、(前述したように)三成に対して以前からそれほど悪いイメージはなく、どちらかというと好きなタイプの武将でした。
あまり詳しくは知らなかったのですが、大谷吉継との友情譚や、島左近を召抱えるときのエピソード、はたまた処刑される直前に「柿は痰の毒ゆえ」と断ったという話……などを漏れ聞くにつけ、結構「いい人」なんじゃないか、と漠然と思っていたのですが、知れば知るほど、なんとも「すごい人」ではありませんか!
何とかして、積年の誤解を解いてあげたいなあ、と思いながら、ネットであちこち歩いていたら、こんな記事を見つけました。
その名も「石田三成のページ」というサイトの『石田三成名誉回復論』という記事です。
ここでは、いかにして忠臣三成が奸佞な悪人に変容していったか、歴史の通説というものがどのようにして(意図的に)作り出されていくか、について、分かりやすく述べられています。
三成が好きな人なら、拍手喝采の名誉回復論ですね。私なんて、この記事を読んで涙が出ましたよ。
もちろん、ことさらに美化する必要もありませんけれど、やはりある程度は公平な目で、その人物の真価を見極めたいものです。まあ、そこから先の創作妄想は個人の自由だとしてもね(笑)。
私も含めて、たとえきっかけはテレビゲームだったとしても、石田三成に興味や関心を持つ人が増えて、それが彼の復権に少しでもつながっていってくれたらいいなと思います。
主観丸出し、グダグダの文章に最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。


 目障りなのだよ!
2008/8/1


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