姜維立志伝 |
第五章 大志あり |
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それから間もなく――。 劉備玄徳、白帝城にて崩御。 混迷を深める後漢末期、漢王室の復興を掲げて戦場を縦横し、ついには蜀漢皇帝となって三国鼎立を成し遂げた一代の英雄は、ここに六十四年の生涯を閉じた。 輝かしい栄光と伝説に彩られたかれの人生は、しかしまた、挫折と苦渋に満ちたものでもあった。生涯をかけた夢の実現は未だ道半ばであり、何より自分亡き後の天下のゆく末を思えば、さぞ心残りだったことだろう。柱石を失った蜀漢の未来は、ひとり丞相諸葛亮孔明の双肩にかかることになったのである。 死に際して、劉備が残した遺言は、居並ぶ諸将を驚かせた。 「孔明。そなたの才は曹丕に十倍する。必ず国家を安んじて、ついには漢室再興の大事を成し遂げてくれるであろう。もし息子の劉禅が輔佐するに足ると思うなら、これを輔けてやってほしい。もしかれにその才能がなければ、遠慮はいらぬ、そなたが自ら取って代わるがよい」 ――君、自ら取るべし、とは異例の遺言である。 が、それこそが劉備の真面目であった。 本来、かれが目指してきたのは、漢王室の復興だ。皇帝を輔けて社稷を守り、天下万民を安んずる、そのための奔走だったといっていい。 魏の曹丕が漢を纂奪して帝位についたことに対抗して、劉備もまた心ならずも蜀漢の皇帝となった。しかしかれにとっては、何よりも魏を倒して漢室を再興することこそが最大事だったのだ。その大事を成し遂げるためならば、凡庸な息子に後を継がせるよりも、孔明にすべてを譲ってもよいと、劉備は本気で考えていたのだから。 むろん孔明には、そんな野心などかけらも無かったのであるが、過激な、ともいえる主君の遺詔の中に、自分に託された悲壮な意志の大きさをひしひしと感じ、改めて決意を新たにしたことだった。 ――陛下の大恩、孔明決して忘れはいたしませぬ。必ず、必ず陛下のご期待に添い奉ります。 孔明の心中を知ってか知らずか、劉備の遺詔に対して、家臣の間にことさら動揺が起きることはなく、また当の劉禅にしても、凡庸ではあったが、孔明の手腕と忠誠を信頼していたので、特に不満を漏らすようなこともなかった。 ただ、劉備の崩御からしばらくして、馬謖が言った一言が孔明の耳に残っている。 「先生が本当に陛下のお志を継がんとお考えならば、帝位を襲われるべきだと私は思いますが……」 控えめにではあるが、遠慮が過ぎるのではないかと非難する馬謖に、孔明は静かに微笑するだけで、何も答えなかった。 少し前、李厳に同じ事を言われた時は、世間にはそのように考える者もいるのかと思った程度で、さして気にも留めなかった。だが、馬謖のように長らく側に仕えていて、孔明と劉備の間を熟知している者の口から、このような言葉が出ようとは。 (馬謖には、玄徳さまや私が生涯をかけて追い求めてきたものが何なのか、その一番の根本が見えておらぬ。すべての方策は、ただひとつの崇高なる目的のため。それがわからぬようでは、まだまだこの孔明の後を継がせるわけにはいかぬな、馬謖よ) ◇◆◇ 蜀漢皇帝の遺骸を守って成都に還る。 皆があわただしく帰還の準備に忙殺されている中、孔明は密かに陳涛を呼んだ。 夷陵の敗戦の折、業火の中から劉備を救い出した若者のことを、孔明は劉備自身の口から聞かされていた。 「では、陛下のお命を救ったのは、あの若者だったというのですか?」 「姜伯約、であったな。自分で陛下に名乗ったというから、間違いはあるまい」 これには、陳涛も驚いた様子だった。 「そういえば、配下の者から、伯約どのは去年の秋ごろから、この白帝城のすぐ近くに仮住まいしていると聞いておりましたが……」 茶を喫していた孔明は、しばらくの間茶碗を両手でもてあそんでいたが、やがてぽつりと言った。 「陳兄。かの者に会えるだろうか」 「は?」 「此度のこと、是非とも直接会うて、礼を言いたい。近くにいるというならなおのこと、成都へ発つまでにもう一度、会うておきたいのだ」 ――私自身のためにも、と孔明は胸の内でつぶやいたが、陳涛には聞こえるはずもない。 過日、成都の軍師府で、初めて姜維伯約と名乗った若者と対峙したときのことを、孔明は昨日のことのように覚えている。 「天下は統一されなければなりません――」とかれは言い、さらに「あなたは間違っている。なぜ、魏に抗していつまでも無益な戦を続けるのか。いたずらに天下を分断し、民衆を苦しめるのか」と、燃えるような眼光で孔明に詰め寄った。一瞬ではあったが、その気迫に孔明はたじろいだ。 (あの時、私はあの者の問いに、はっきりと答えることができなかった。己自身の中に迷いがあったからだ。しかし、玄徳さまという唯一の拠り所を失って、ようやくわかった。我々が真に求めるものが何なのか、何のために今日まで戦い続けてきたのか。そして、これから先、己が何を成すべきか。今、その答えは、明確な形で私の中にある) ――姜維伯約。私は今こそ答えよう。そなたに、そして私自身に。 自己の決意を磐石なものとするためにも、もう一度姜維伯約に会わねばならぬ、と孔明は思う。 「では、すぐに手筈を整えましょう。こちらからお忍びで出向いていただくことになると思いますが」 「わかっておる。できるだけ早く頼むぞ」 「承知いたしました。吉報をお待ちくだされ」 陳涛は深々と一礼すると、音も立てずにその場を立ち去った。 それからの陳涛の行動は迅速だった。部下から伯約の所在を確かめると、次の日には自らその場所に出向いて行った。 そこは、白帝城の城下から十里ほど離れた寒村だった。谷あいに隠れるようにして、粗末な民家が点在している。 「伯約さま。お元気そうではありませんか」 村はずれの雑木林の中で、いつものように槍の鍛錬に汗を流していた姜維伯約は、声をかけてきた相手が顔見知りの陳涛であるのを認めて、思わず駆け寄った。 「陳涛どのも、お変わりなく」 「いやあ、いささか老け申したわい」 笑いながら編笠を取った陳涛の鬢には、以前より白いものが目立つようだった。だが、相変わらず飄々とした風貌と、引き締まった精悍な肉体は、言葉とは裏腹に、まったく老いを感じさせない。 「今も耳目の頭領を務めておられるのですか?」 「それがしは死ぬまで臥龍先生の耳目でございますよ。そんなことよりも、伯約さま」 ――折り入ってお願いがございます、と陳涛は、孔明が伯約に会いたがっていることを伝えた。 「孔明どのが?」 「夷陵にて陛下の危難をお救いくださったこと、是非とも会うて礼を言いたいと」 「私の行動は、すべてお見通しというわけですね」 伯約はしとどの汗を拭うと、陳涛にも勧めて柏の木陰に腰を下ろした。雨気を含んだ初夏の風が、緑鮮やかな梢の間を吹き抜けてゆく。 「これは……。一雨来るかもしれませんね」 谷から湧き立った雲は、峰々の上にわだかまり、灰色の積乱雲となって空を覆い始めていた。重く湿った風が、にわか雨が近いことを告げている。 「陳涛どの、場所を変えましょう。客人を招くにはふさわしくないあばら家ですが、私が借りている家がすぐそこにあります。せっかくこうしてお目にかかれたのだから、昔話などしながら、ぜひ一献差し上げたいのですが」 「それでは、お言葉に甘えさせていただきましょう」 伯約は、急いで身支度を整えると、川沿いの集落から離れてぽつんと建っている一軒家に陳涛を案内した。去年の夏以来、イルジュンと二人で仮住まいしている場所だ。前の持ち主が疫病で死んで、空き家になっていたのを、村の長老に交渉して貸してもらっている。 建付けの悪い戸を開けて家の中に入ったとたん、激しい雨が落ちてきた。遠くで雷鳴も聞こえる。 「よかった。あそこでぐずぐずしていたら、ずぶ濡れになるところでした」 伯約は、イルジュンに命じてささやかな酒肴の用意をさせ、陳涛との再会を祝した。 「夷陵の戦の後、ずっとここに住まっておられると聞きましたが」 「もとより行く当てもない浪々の身。玄徳公をお救いしたのも何かの縁と思えば、その後の成り行きが気になって、未だにこの地に留まっているようなわけです」 しかし、と伯約は言葉を継いだ。 「その玄徳公もついに身罷られた。私がここに留まっている理由もなくなった、ということですね」 「………」 「陳涛どの。出過ぎたことかもしれないが、私はあの時、玄徳公にあんなところで死んで欲しくなかったのです。孔明どのがおっしゃった玄徳公の大志の行方を見定めるまでは、あの方を死なせるわけにはいかないと思った。だが――」 陳涛を見つめる伯約の視線が、鋭くなる。 「私が夷陵で玄徳公をお助けしたことは、結局無駄だったのでしょうか?」 斬り込むような問いかけに、さあ、と陳涛は思慮深そうな目を上げた。 「それがしにはわかりません。ただ、そのこともあって孔明さまは、あなたさまに会いたいとおっしゃっているのではないかと推察するだけで」 なぜ今この時になって、孔明が急に伯約に会いたいなどと言い出したのか、本当のところは陳涛にもわからなかった。 けれど、劉備の死という絶対的な喪失感を、伯約に会うことで少しでも紛らわせることができるのであれば、孔明にとってそれもよいかもしれぬ、と思ったのだ。 今の孔明には、何か新しい希望が必要だった。遠く果てしない茨の道へ、新たな一歩を踏み出すための力の源となるような何か――。 できることなら伯約に、その希望になってもらいたいものだと、陳涛は漠然と考えている。 ◇◆◇ 陳涛が姿を見せてから三日後、今度は諸葛孔明その人が、伯約の住まいを訪ねてきた。蜀漢の丞相という身分でありながら、目に付く護衛は陳涛一人だけである。 「孔明先生。お久しゅうございます」 成都で別れて以来、まだそれほど経っているわけではないのに、ひどく懐かしい思いがあふれてきて、伯約は我ながら不思議だった。 一年ぶりに会う孔明の姿は、心労のせいか、以前よりもやつれて見える。それでも、全身からにじみ出る清雅な雰囲気と凛としたまなざしは、初めて対面したあの夜のままだ。 「このような辺鄙な場所へわざわざ出向いていただき、恐縮です。ひどいあばら家ですが、どうぞこちらへ」 伯約に案内されて家の中に入った孔明は、きれいに片付けられた室内を見回し、 「そなたもここを発つのか?」 と尋ねた。 「はい。劉備さまが亡くなられた今は、この地に留まる理由もありません。近いうちに引き払うつもりです」 「これからの当てはあるのか?」 伯約はちょっと考えてから、にっこりと笑った。 「いいえ。また元の浪々暮らしに戻るまでのことです」 「さようか――」 孔明は、何か言いたげにじっと伯約の顔を見つめていたが、伯約は屈託のない笑顔を返すばかりである。 奥の間で対座した二人は、改めて礼を交わした。 「今日ここに参ったのは、先の戦で、陛下の危難を救ってくれたことへの謝意を申し述べるためです。姜伯約どの、この諸葛亮、蜀漢の人臣に成り代わり、衷心より礼を申し上げる。ついては、これは些少ですが、我らの気持ちと思うてお受け取りいただきたい」 孔明の指示で陳涛が差し出した謝礼を、初め伯約は頑なに固辞したが、 「なにとぞお収めおきください。これしきの礼金を受け取られたところで、あなたさまのお名前に傷はつきますまい」 陳涛がぜひにと進めるので、とうとう伯約も根負けしてしまった。孔明の対応も決して押し付けがましいものではなく、礼に適った見事なものだった。 「時に――」 頃合を見て、伯約は、陳涛に尋ねたのと同じことを孔明にぶつけてみた。 自分が夷陵で劉備を助けたことは結局無駄だったのか、という伯約の問いに、孔明は一瞬、その怜悧な横顔をこわばらせたが、すぐにふわりと穏やかな表情に戻って、 「いや。お主には心底感謝している。もしもあの時、陛下が戦場で呉軍に討たれておられたら、もっと悲惨なことになっていたであろう」 と、改めて頭を下げたことだった。 ――もし、成都を出陣された時のまま、再び陛下に拝謁することが叶わなかったとしたら……。何より私は、自分自身が許せなかっただろう。 劉備を止められず、複雑な思いを胸に沈めて出陣を見送ったあの日の光景を思い出し、孔明は苦い後悔を飲み込んだ。 「そなたが陛下を救ってくれたおかげで、私は再び陛下の竜顔を拝し、お言葉を頂くことができた。そうしてようやく、陛下の大いなる遺志を、この手で受け継ぐ覚悟が定まったのだ。すべて、そなたの働きがあったればこそじゃ」 死に臨んで、劉備が自分に寄せてくれた信頼の深さを、目の覚めるような感動とともに思い知らされた日。主君の情熱に衝き動かされるように、その夢の実現に己の生涯を捧げようと、固く心に誓った孔明だった。 もし劉備が、あのまま夷陵の戦場の露と消えていたら、再び彼の人と心通わすことができただろうか。 「私がこうして、自らそなたに会いに参ったのには、今ひとつの理由がある。それは、己の覚悟を明らかにし、その決意をそなたに伝えんがため――」 「私に?」 不審な面持ちの伯約に、孔明は力強くうなずいてみせた。 「姜伯約。以前、そなたが私に尋ねた問いに、今こそ答えよう」 白羽扇をひざの上に置いて姿勢を正すと、孔明は、澄み切ったまなざしをじっと伯約に注いだ。 「お主の言うとおり、天下は統一されねばならぬ。そうでなければ、真の平和は訪れぬ。それは、この孔明にも十分過ぎるほどわかっておる。だが、乱世を収めて天下を安んじ、民草を安寧ならしめるのは玄徳さまや曹操や孫権といった一代の英雄、一個人ではない。それは、崇高なる理想に基づく天の意志、『大志』なのだ。そして大いなる志とは、ひとり一代のものではなく、次の世代へと受け継がれてゆくべきもの。恥ずかしい話だが、この孔明、殿を失って初めて、ようやくそのことに気がついた。その機会を、そなたが与えてくれたのだ」 気迫を込めて語る孔明の言葉のひとつひとつを、伯約は胸に刻みつけるような思いで受け止めていた。ようやく、劉備や孔明の掲げる『大志』の意味が、おぼろげながら掴めるような気がしたのだ。 「これまでは、殿あっての天下と思うていた。玄徳さまのおられぬ天下など、私には考えられなかった。だが、人の寿命はいつか尽きる。いかな英雄豪傑といえど、死は逃れられぬのがこの世の道理。さればこそ、玄徳さま亡き後も、大志は受け継がれ生かされなければならぬ」 「孔明どの……」 「道半ばにして斃れられた殿のご遺志は、この諸葛亮が受け継ぐ。私が今後、どのように戦い、そして果てるか、それをそなたにも見ていてもらいたい。そのことを言いたくて、ここに参ったのだ」 孔明の眼は炯々として、果てしなく遠い未来へと続く道をまっすぐに見据えている。それを目の当たりにして、いつしか伯約の胸も、我知らず、熱い感動に震えた。 「私も見守りましょう。玄徳公からあなたへと受け継がれた、大いなる志の行く末を」 大志あり――。すなわち我、諸葛亮の胸の内に。 |
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語り部のつぶやき…。 お待たせしました〜。やっと第5章が完結しました。とんでもない遅筆で申し訳ありません。 この「姜維立志伝」は、ほとんど史実に関係のないエピソードが多いのですが、この章だけは、劉備の死という実際にあったことがらを描かなくてはならず、結構大変でした。 何だか最初に考えていたよりも、どんどん孔明さまがヘタレになっていってしまいまして…。やっぱり、孔明さまにとって劉備というのは、これほどまでに重くて大きくて、かけがえのない存在だったんですね。 次回からは、再び全くのオリジナル設定に戻る予定です。 次回のツボは…曹叡くんの登場!ですかね(笑)。お楽しみに。 |
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