いにしえ・夢語りHOME蜀錦の庭姜維立志伝目次

姜維立志伝
第五章 大志あり



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二二三年四月。劉備の病状がにわかに改まったという知らせを受けた孔明は、取るものも取りあえず、皇太子劉禅以下の皇子たちを伴って急ぎ白帝城に入城した。
すでに夜も更けていたので、正式な拝謁は明朝ということにして、一行はそれぞれ居室に引き取ったが、ひとり孔明だけは、旅装も解かずに劉備の御座所へと向かった。
途中で、こちらへ歩いてきた馬謖が、孔明の姿を認めて駆け寄ってきた。憔悴しきった表情で、眼だけが異様に血走っている。ここ数日ろくに眠っていないのだろう。
「丞相」
絞り出すように言った声がかすれていて、胸騒ぎを覚えた孔明は、思わずその場に立ちすくんだ。
「陛下のご様子はどうじゃ?」
「今は落ち着いておられます。五日ほど前から高熱が続き、お食事もほとんど召し上がっておられませんでしたので、一時は、医師も覚悟しておいた方がよい、と……。今朝方になってようやく熱も下がり、意識もはっきりしておられるようで、一同安堵いたしました」
「さようか――」
不意に、石を飲み込んだように、胸のあたりが固くなった。
――カクゴシテオイタホウガヨイ。
馬謖の口から聞かされた医師の言葉が、意味を持たない記号のように、頭の中をぐるぐる回っている。
「お目にかかることはできるだろうか?」
「はい。丞相が来られたらすぐにお通しするようにと、陛下直々に言いつかっております。たった今、丞相が到着されたと聞き、お迎えにあがるところでした」
馬謖が先に立ち、長い回廊を渡る。御座所の前に来るまで、二人とも押し黙ったまま一言も言葉を交わさなかった。
「ご苦労だった。そなたは下がって休むがよい」
馬謖は深々と一礼すると、静かに立ち去っていった。
扉の前に立った孔明は、天を見上げて大きく息を吐いた。目を閉じ、もう一度雑念を振り払う。
(何があっても、毅然としているのだ。陛下の前では、決して動揺を見せてはならぬ)
だが、そんな覚悟も、劉備の姿を目にしたとたん、音を立てて崩れてしまうかもしれない。寝台の裾に取りすがって、声を上げて泣いてしまいそうだ。
御座所の入り口に立っている年若い衛兵が、不思議そうな眼で孔明を見つめている。
孔明は、唇をきつく引き結ぶと、静かに扉を開けた。

◇◆◇

劉備は眠っていた。
時折ゼイゼイと苦しそうな呼吸音が混じるものの、寝顔は安らかだった。
孔明は、声をかけるのをためらった。この五日間、食べることも眠ることもできず、ようやく訪れた安眠なのかもしれないのだ。その安息を、ほんの少しでも妨げたくはない。
(おやつれになられた……)
目の周りには、黒々とした隈が翳を落としている。肉の削げた頬が痛ましい。別人のように面変わりしてしまった劉備の寝顔を見守りながら、孔明は身じろぎもせずにその場に立ち尽くしていた。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
やがて、小さな呻き声をもらし、劉備は目を開いた。
「お目覚めでございますか、陛下」
孔明が呼びかけると、劉備は焦点の定まらぬ目でじっと声のする方を見つめた。ようやく孔明の姿を見分けたのか、やつれた頬に弱々しい笑みが浮かんだ。
「いつからそこに立っていたのだ、孔明。すぐに起こしてくれればよいものを」
「陛下のお顔があまりにも安らかでしたので、見とれていたのです」
主従は、目を合わせて、温かな微笑を交わした。
「よく来てくれた。今度ばかりはさすがに、もう会えぬかもしれねえと覚悟していた」
――自分の身体のことは、自分が一番よくわかっているのさ、と劉備は屈託なく笑う。その顔で、言った。
「孔明。無茶を承知で言う。俺が死んだら、お前が後を継ぎ、蜀を治めてくれ」
「陛下――!」
息が止まるかと思った。突然、何ということを言うのだ、この方は。
「滅相もございません。陛下には劉禅さまという立派なお世継ぎがいらっしゃるではありませんか」
「禅には荷が重過ぎる。己の息子の器量を、俺が知らぬと思うのか。太守や郡司くらいなら、あるいは何とか務まるかもしれんがな」
劉備の双眸には、いつしか炯々とした光が宿っている。たった今まで、瀕死の床に臥せっていた男の目とは思えない輝きだった。
「だが、俺たちが求め続けてきたのは、そんなものじゃねえだろう。今、俺がお前に託さなきゃならねえのは、出来の悪い息子の行く末でもねえ。蜀一国の安泰でもねえ」
息を切らしながら、それでも劉備はうかされたように話し続けた。
「それは、お前が『志』と名付けたものだ。俺とお前と、関羽や張飛や趙雲やホウ統や、大勢の仲間たちが命をかけて守り続けてきた天下への夢だ。その大切な希望をそっくり預けることができるのは、お前しかいねえんだよ」
「玄徳さま……」
「俺が蜀漢皇帝の位に就いたのは、蜀一国に胡坐をかいて、子々孫々栄耀栄華を極めるためじゃねえんだぜ」
そこまで一気に言ってから、深いため息をつくと、劉備は心底疲れたというように目を閉じた。窪んだ眼窩のあたりに死神の影を見たような気がして、孔明は名状しがたい悪寒に襲われた。
このまま――。もし、劉備を失うことになったら、と。

元来流浪の集団であった劉備軍は、拠点となる地縁や血縁を持たない。その中心は、常に劉備玄徳という一個人の求心力だった。徐々に勢力を拡大していく中で、荊州閥や益州閥といった寄せ集めの家臣団をまとめ上げていくことができたのは、ひとえに劉備の器の大きさにほかならない。
(果たして自分に、それほどの器量があるだろうか?)
劉備の遺志を継ぐ、と口で言うのは簡単だ。それをなすべきは自分しかいない、ということもわかっている。しかし、劉備亡き後、進むべき道の遠さ、困難さを思えば、生半可な覚悟や気負いだけでは到底引き受けられるものではないことも事実だった。
「陛下。どうかお心を強くお持ちくださいませ。陛下あっての蜀漢、陛下あっての天下ではありませぬか。私ひとりの力では、乱世を定めることなど到底叶いませぬ」
「謙遜するな、孔明。お前の才は曹丕に十倍するじゃねえか。俺の方こそ、お前に出会えなかったら、蜀漢どころか小城ひとつこの手にすることはできなかった。お前なら、俺の『志』を継いで、必ずやまっとうな世の中を築いてくれると信じている。口惜しいが、俺の命はもうすぐ尽きる。それがわかっているからこそ、こうしてお前に頼んでいるんだ」
――ああ。
と、孔明は胸の底から嘆息した。
(この方にお仕えして十七年余、私は何ひとつ成す事ができなかった。玄徳さまに全幅の信任をいただきながら、ついにその大望を叶えてさしあげることができませんでした。あなたが寄せてくださった信頼に値せぬ、不出来な軍師です。そんな不甲斐ない私に、あなたはすべてを託そうとおっしゃるのですか)
もう、不安も重圧もなかった。己の器量や実力も関係ない。これほど自分を信頼してくれる熱い気持ちに、どうして人として、男子として、応えずにいられようか。その瞬間、劉備の魂はしっかりと孔明の中に受け継がれたのである。

「陛下のお気持ち、誰よりもよくわかっているつもりです。何としても、陛下の志を現実のものとするために、全力を尽くすことをお約束いたしましょう。そのためならば、たとえ肝脳を地にまみれさせようとも、いささかも悔いはございません。ですが、陛下――」
孔明は、劉備の痩せた手を握りしめた。
「この孔明はあくまでも臣下として、死ぬまで太子をお輔けする覚悟でございます」
「やはり、受けてはくれねえか……」
「何と仰せられましても、それだけはできませぬ。徳の将軍と呼ばれた陛下の大志を継ぐ者が、そのお世継ぎの位を奪ったとあれば、家臣は言うに及ばず、天下の民意ことごとく離れてしまいましょう。どうしてもとおっしゃるなら、私はこの場で自死するまで」
「わかった、もう言わねえ。帝位は劉禅に継がせよう」
だが、と燃えるような視線で孔明の双眸を貫き、劉備は言葉を継いだ。
「お前に蜀漢皇帝の位を譲り、禅譲の美風をもって世を治めることこそ、俺たちの理想とする王道なのだという気持ちに、偽りはない。そのことを忘れないでほしい」
「陛下……」
「そうとなれば、諸葛孔明こそが劉備玄徳の真の後継者であるということを、禅にも皆にも、よく言い聞かせておかなくちゃならねえな」
そうして、劉備は声音を改めた。
「孔明。明日の朝、禅や子どもたち、それに白帝城にいる重臣たちをここに集めてくれ。皆の前で、言っておかねばならぬことがある」
それが何を意味するのか、孔明にはわかっていた。いよいよ死を覚悟した劉備は、重臣たちに遺詔を明らかにしようとしているのだった。
もはや、劉備の死を回避する手立てはないのか。これが運命だというのか――。
「承知仕りました」
血を吐くような痛みを胸底に沈めると、常と変わらぬ落ち着いた声で答え、やっとの思いで孔明は劉備の御座所を退出した。

◇◆◇

「………」
声に出せば、理性が弾け飛んでしまいそうだ。扉を閉めきるまで、孔明はじっと唇を噛み締めていた。
人気のない回廊の中程まで来て、夜空を見上げたとたん、張り詰めていた糸が切れた。頭が真っ白になり、孔明は、崩れるようにその場にうずくまった。
重く長い沈黙が過ぎてゆく。
突如、食いしばった歯の間から、獣の咆哮のようなうめき声がもれた。うめき声はいつしか鳴咽に変わり、やがて身を引きちぎられるような号泣になった。
(あなたを失うことが、こんなにも耐え難い苦しみだとは……)
これほどに――。自分にとって劉備は、これほどの重さを持った人であったのかと、今自分の手からこぼれ落ちようとしているものの大きさを、孔明は改めて悟ったのである。
「陛下――」
やるせない吐息とともに見上げれば、視線の彼方には、夏の匂いを含んだ夜空に輝く満天の星。遥かな時空を越えてきた光が、静かに地上に降り注いでいる。
(私を置いて逝かれますのか、陛下。いえ、玄徳さま! あの日、あなたは私に、ともに夢を叶えようとおっしゃったではありませぬか。その夢を、私一人の手に託して、あなたは逝ってしまわれるのですか!)
必死の呼びかけに、答えはない。一筋の光も見えない。己の存在すべてが、夜の闇に飲み込まれていくようだ。
言葉もなく立ち尽くす孔明の頭上に、梢を渡る風がさやさやと鳴るばかりである。




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