姜維立志伝 |
第五章 大志あり |
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夷陵の戦場から敗残の劉備玄徳を救い出した姜維伯約は、劉備が無事白帝城に入るのを見届けてから後も、城下近くの村に仮住まいしつつ、魏、呉、蜀三国の動静を見守っていた。 初めて出会った諸葛亮孔明から、己の未熟さを一喝された日の衝撃は、不思議と懐かしい感慨を伴って思い出される。あれからずっと、孔明や劉備が求め続けているという「夢」のゆく末が、心にかかって離れなかった。 だからこそ、劉備が蜀軍の総力を挙げて呉に出兵したと聞いた時には、矢も盾もたまらず、長江のほとりまで馬を飛ばして駆けつけたのだ。 その行動が、思いがけず劉備の危難を救うことになったのだが、しかし劉備の命運は、やはり夷陵の戦火の中で燃え尽きてしまっていたのだろうか。病床に伏した蜀漢皇帝の容態は、新年を迎えても、一向に回復の兆しを見ることはなかった。 孔明が諸事雑務を整理し、ようやく劉備の許を訪れることができたのは、翌二月になってからのことだ。成都からの道程を飛ぶような思いで軽騎を駆り続けた孔明は、夕闇が迫る頃、白帝城に入った。 城内は、張りつめた空気が満ちている。営倉にたむろしている雑兵たちの顔までが、緊張に包まれているように見えた。劉備の病状は一進一退で予断を許さないと、事前に医師から聞かされていたものの、これほどに差し迫った状況にあるとは、実際ここに来るまで実感することができなかった。 馬謖ひとりを伴って、すぐさま劉備が臥せっている御座所へと向かう。灯りを落とした部屋には、数人の従者や小姓が控えていたが、孔明の姿を見ると皆黙って退出した。 幾重にも重なった帳の奥、病躯を横たえている懐かしい人の姿を目にしたとたん、胸底から堰き上がってくる名状しがたい激情に、孔明は思わずめまいを覚えた。 「陛下――」 寝台の傍らに拝跪し、小さく呼びかけると、眠っていた劉備が薄く目を開いた。 少しの間に驚くほど白髪が増え、やつれた横顔に病の翳が濃い。それでも、孔明の姿を認めた劉備は、うれしそうに口元をほころばせた。 「孔明。ようやく来てくれたか」 「お側に馳せ参じるのが遅くなりまして、申し訳ございませぬ」 ――いやいや、と劉備は痩せた手を振った。 「儂がこんな有様では、軽々しく成都を離れることができぬことくらい分かっている。負け戦の後始末もつけねばならぬしな。今日までさぞ大変だったろう」 こんな時でも、まず相手を労わることを忘れぬ劉備なのであった。 「この度、無事に呉国との和議も成りましたゆえ、臣もこうして成都を離れることができたのでございます」 「そうか。それは何よりだ」 劉備は、目を閉じると、ほっと安堵のため息をついた。 「もう何もご心配には及びませぬ。陛下は、ご自分のお身体の回復だけをお考えくださればよいのです。そして、一日も早く成都へご帰還あそばされますよう」 成都へ――。己の言葉を胸中で反芻し、再び孔明の心はかき乱される。果たして自分は、劉備を伴って再び蜀の地へ帰ることができるのであろうか。 「お前には苦労をかけてばかりで、本当にすまねえ。今度のことは、お前や子龍の言葉を聞かなかった俺の不覚だ。今更何を言っても、言い訳にしかならねえが」 二人だけだ、という気楽さからか、劉備は昔の口調に戻っている。懐かしい主の声を聞いているうちに、不意に孔明は嗚咽をもらしそうになった。大声で叫び出したくなる衝動を喉元でこらえて、できる限り平静を装いつつ答えた。 「陛下。どうかそのようなことで、御心を煩わされますな。臣は、少しも苦労だなどとは思うておりませぬゆえ」 「俺はいつも、孔明に甘えてばかりだな」 ――いいえ、いいえ、と孔明は心中で激しくかぶりを振る。 (私の方こそ、いつも殿のお優しさに甘えて、その大きな懐の中で生かされてきたのです……) 劉備に出会わなかったら、おそらく自分はあのまま隆中の田舎に埋もれていただろう。己が真に進むべき道も、生きる意味も見出せぬまま、鬱屈した思いだけを抱いて朽ち果てていたに違いない。 それからの日々を劉備とともに過ごしてきたことで、どれほど孔明の人生が豊かなものになったことか。志を同じうする者のために己が人生のすべてを捧げ、夢の実現に向かって知略の限りを尽くす――。男子として生まれて初めて、心が湧き立つような喜びと充実感を教えられた。 己の生は劉備によって再生されたのだ、と孔明は思っている。 それからしばらくの間、主従はたわいのない世間話や思い出話に時を過ごした。ややあって孔明は、劉備の許しを得て、部屋の外に待たせてあった馬謖を呼び入れた。 「実は、今回の呉との和議に際しましては、あちらに控えております馬謖がいろいろと骨を折ってくれましたので、思いのほか早く話をまとめることができたのでございます」 「馬謖というと、馬良の弟じゃな。かまわぬ。近う参れ」 劉備は、入り口で拝跪している馬謖を、帳の内側へと差し招いた。寝台の側へとにじり寄った馬謖に対して、劉備は慈愛に満ちたまなざしを向けて言った。 「馬良は、最期まで儂を逃がそうとして……。我が身を盾に、血路を開いてくれた。この身が今あるのは馬良のおかげじゃ。礼を申すぞ」 「勿体のうございます、陛下」 思いがけない言葉に、馬謖は恐懼して額を床にすり付けた。 「陛下。臣はまたすぐに成都へ立ち戻らねばなりません。いつまでも陛下のお側近くにいたいのですが、それほど長くこちらに留まっているわけにもまいりませず、代わりにこの馬謖を残してまいります。まだまだ未熟者ゆえ、至らぬことばかりと存じますが、どうか陛下の広い御心をもって、厳しく指導してやってくださいませ」 孔明が直接部下を劉備に推挙するのは、異例のことだった。それだけ馬謖に期待するものが大きかったということだろう。当の馬謖は身じろぎもせず、その場に額づいている。 「それは心強い。よろしく頼むぞ」 劉備の声が重々しく響く。馬謖は感激で口もきけなかった。汗とも涙とも分からぬものが目にしみて、かれは何度も目をしばたたいた。 ◇◆◇ 成都へ戻ってからも、相変わらず孔明は、政務に追われる忙しい日々を送っていた。 白帝城の馬謖からは、毎日のように書簡が届く。そこには、劉備の日常の様子や謁見に訪れた者とのやりとり、食事の内容まで、事細かに記されていた。 それでも孔明には物足りない。直に劉備の顔を見、声を聞くことができないという寂しさは、余人には理解できないほどの激しさで、孔明の心を苛むのだった。 せめてもの思いを込めて、朝に夕に望楼に登っては、遠く東の方白帝城に向かって劉備の無事を祈るのが、孔明の日課であった。 ――陛下。お加減はいかがでございますか。お苦しくはございませんか。一日も早くご快癒あそばされますよう。 出会った頃の、まだ若々しく精気にあふれた劉備の姿が目に浮かぶ。それと同時に、生涯の主に巡り会えたと確信したあの日の、己が心の高鳴りをまざまざと思い出す。 あれから幾度死線を越えてきただろう。乾坤一擲、決死の覚悟を決めたことも一度や二度ではない。けれど孔明は、それを少しも苦難と感じたことはなかった。劉備と生死をともにし、劉備のために粉骨砕身することは、この上ない喜びだったから。 「丞相」 背後から落ち着いた声が聞こえ、孔明は我に帰った。 数歩の距離を保ち、控えめに立っているのは、五虎将軍の一人趙雲子龍だった。劉備が旗揚げした当初から辛苦をともにしてきた家臣は、この頃にはもうほとんど残っておらず、関羽、張飛亡き今、趙雲は蜀臣中の最長老といっていい。 さらに、趙雲ほど、孔明が信頼を寄せた武将はほかにいない。かれは、命令されたことは、たとえそれがどんなに困難な任務であっても、必ずやり遂げる男だった。陽動作戦の囮部隊や、退却の際の殿軍などの難しい局面で、常に軍師が意図する以上の働きを見せてきた。 かの当陽長坂坡での大敗戦の中、阿修羅のごとく曹操軍百万の中を駆け抜けて、劉備の家族を救い出した時も、 「玄徳公のご家族を守護せよと、いいつかっておりました故――」 敵味方双方に舌を巻かせるほどの働きをしながら、事もなげに言って、劉備や孔明を感嘆させたものだ。その奮戦ぶりは、もはや伝説となっている。 あるいは孔明が、万にひとつも生還の望みのない任務を与えたならば、かれは何のためらいもなく黙って死地に赴くであろう。趙雲子龍とは、そのような武将であった。 「これは趙将軍。何か急用ですか?」 「いや、おひとりのところをお騒がせして申し訳ござらぬ。急用というほどでもないが、先程丞相府でお見かけした折、お顔の色が優れぬようにお見受けした故、少々気になり申して」 趙雲は、無骨な中にも真摯な態度をにじませて、じっと孔明を見つめた。 「毎日毎夜、寝る暇も惜しんで公務をこなしておられるのでござろう。少しはご自分の身体もおいといなされよ。丞相に万一のことあれば、それこそ国家の一大事ですぞ」 実は無理に我が身を酷使しているのだ、とは孔明は言わなかった。 政務に没頭している間だけ、劉備のことを忘れられる。気の狂いそうな不安から逃れることができる。疲れ果てて眠りに落ちれば、悪夢にうなされることもない。 だが今は、趙雲の忠告を素直に受け取っておくことにした。 「将軍のありがたきお言葉、孔明、胆に銘じます」 小さく頭を下げた孔明の顔をのぞき込むようにして、趙雲が言った。 「陛下のことが気がかりなのであろう? 孔明どの」 生真面目な視線が、孔明の双眸を凝視している。『丞相』ではなく字で呼んだところに、趙雲の気遣いが感じられた。自分の前でなら、一国の宰相という立場を離れ、一個人としての心情を吐露してもいいのだ、と言いたかったのだろう。 「子龍どのにかかっては、この孔明も赤子同然。すべてお見通しですね」 「それがしも思いは同じ故、孔明どのの気持ちが痛いほど分かるのでな」 趙雲から目をそらした孔明は、突然、蒼白な顔に感情をあらわにした。 「私は恐ろしくてならぬのです。もし、玄徳さまを失うようなことになったらと思うと、不安と焦燥で夜も眠れぬ。万一そのようなことになれば、己がどうなってしまうか分からない」 白羽扇を持つ手が、かたかたと震えている。長身の背中に滲む孤独の翳が痛々しかった。 「私はどうすればいいのです? 病で苦しんでおられるあの方のために、何もしてさしあげられない。たとえ風を呼び、嵐を起こすことができたとしても、いったいそれが何になろう。今の私には何の力も術もないのだ。子龍どの、笑ってくだされ……」 趙雲は驚いた。何があっても常に冷静沈着、時として冷酷な印象さえ与える孔明が、これほど感情をむき出しにし、取り乱している姿を見たことがなかった。 「孔明どの!」 趙雲は思わず孔明に駆け寄ると、小さく震えている手を握り締めた。血の気をなくした手は、氷のように冷たい。そこへじっと自分の体温を注ぎ続ける。 「お心を強く持たれよ、孔明どの。あなたは蜀漢の支柱ですぞ。このような時こそ、あなたが毅然としておられねば。だが――」 と、趙雲は重ねた手に力を込めた。 「今は、気が済むまでお泣きになるがいい。それがしはそのために、ここに参ったのだから」 「子龍……」 孔明の白蝋のような頬に、かすかに赤味が差した。大きく見開かれた双眸は悲痛な色を湛えていたが、それでも孔明は泣かなかった。 「ありがとう。お主が側にいてくれて、よかった」 二人は、黙って暮れなずむ東の空を眺めた。 山並みが連なる彼方、しだいに藍色の濃くなっていく空に、ひとつふたつと星が瞬き始める。 「今は祈ろう、孔明どの。我らにできるのはそれだけだ」 そうだ。ただひたすら、劉備の回復を祈ることしかできない。 だが、蜀漢に連なる全ての人々の必死の祈りも空しく、別れの時は刻々と近づきつつあった。 |
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