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姜維立志伝
第五章 大志あり



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寝苦しい夜。
息が詰まる……。

諸葛孔明は、夢の中にいた。
黒煙が空を覆い、今が昼なのか夜なのかさえ定かではない。大地は寂として、哭き渡る風が蕭々とこだましているばかりである。
(ここはどこだ? 私はどうしてこんなところに?)
荒野を行く少年(それは、若き日の孔明なのだが)には、記憶がない。もう何日も、ただひとり、旅を続けているのだ。
「お願い……助けて、助けてくださいまし――」
突然、足元から、絶え入りそうなか弱い声が湧いた。
いつの間にそこに来たのか、少年の足にすがりついているのは、血まみれの若い女だ。まだ少女といってもいいほどの、幼さの残ったその顔には、すでに死相が現れている。
「しっかりなさい」
慌てて抱き起こそうとして、少年ははっとした。女には、左腕がない。断ち割られた肩先から夥しい血が流れ、地面を黒く濡らしている。
一瞬のためらいの後、少年が抱きかかえた時には、女はすでに息絶えていた。

呆然とたたずむかれの眼に、驚くべき光景が飛び込んできた。つい先刻まで、岩ばかりが転がる荒涼とした原野と見えた大地には、累々と重なる死骸が山をなしていたのだ。男も女も、老人も乳呑み児も、そこにあるすべてのものが死に絶えていた。
「誰がこんなむごいことを……」
その呟きを待っていたかのように、荒野の一方に突如として鬨(とき)の声が湧き上がり、天地を包んだ。
津波のように寄せてくる声の彼方、砂塵と黒煙の中に浮かび上がったのは、ひとりの武将の姿だった。
男の周りには、血煙と阿鼻叫喚が渦巻いている。足元にひれ伏す無数の民衆を、手にした白刃でなぎ倒し、突き殺し、思うさま殺戮しているのだ。
「おのれ! うぬは逆賊曹操だな!」
なぜその名を知っていたのか、自分でも気づかぬまま、少年は義憤に燃えるまなじりを上げ、我を忘れて立ち上がった。
「いかにも、儂は、漢の丞相曹操孟徳である」
「黙れ! 漢臣でありながら天子をないがしろにし、己が権力をほしいままにしている逆賊め。それを漢の丞相などとは、今に天罰が下るぞ!」
曹操は冷ややかに笑って、
「黄嘴の豎子の分際で、この曹操に意見しようなどとは片腹痛いわ。そう言うおのれは何者ぞ!」
と、若い旅人に向かって威圧するような一瞥をくれた。
「私は――」
名乗りを上げんとして、しかし、少年は困惑してしまった。
(私はいったい何者なのだ?)
不思議なことに、そこだけ記憶が欠落している。その微妙なためらいを、曹操は怯懦のせいととったようだった。
「どうした? 小童(こわっぱ)! 名乗りたくなければそれでもよい。どうせ、とるに足らぬ虫けらよ。お主は、今ここで、儂に討たれて死ぬのだからな!」
言いざま、曹操は、白刃をかざして殺到した。
(だめだ、逃れられぬ――)
殺気を噴かせて寄せてくる曹操に立ち向かおうにも、身には寸鉄も帯びてはいないのだ。
少年が、観念の眼を閉じたその時。
「孔明――!」
凛呼とした声が響いた。少年は、その声に聞き覚えがあった。
(これは? ……この声は、我が君玄徳さまかっ!)
主の懐かしい声は、見る間に空の暗雲を晴らし、荒涼とした大地に一条の光を差し込ませた。それとともに、少年の記憶を覆い隠していた分厚い霧をも吹き消したのである。
「そうだ。我こそは、皇叔劉玄徳公に仕える諸葛亮孔明!」
少年は、身の内にあふれる確かな力に眸子を輝かせ、語気爽やかに言い放った。とたんに、その姿は、時空を超えて颯爽たる美丈夫に変貌していく。
そこに現れたのは、鶴しょう(道士の着物)をまとい綸巾を戴いた蜀漢の軍師、諸葛孔明の姿だった。
孔明は、右手の白羽扇を高々とかざすと、眼前の敵に向かって一喝した。
「さがれっ、曹賊!」
たちまち――。
数歩の距離にまで肉薄していた曹操の影は、煙のようにかき消えてしまった。

◇◆◇

怪異な夢はそこで破れた。
はっとして目覚めると、全身が汗でぐっしょりと濡れている。あるいは、うなされていたかもしれない。
孔明は、そこが成都城内丞相府の自室であることを知った。
寝台の上に身を起こしたかれの脳裏には、まだ夢の情景が生々しく残っていた。
(曹操……か。魏王よ、死して後もなお、我が夢を騒がすか)
徐州の夢。
もう幾度見ただろう。
記憶からは、ほとんど消えかけてしまった紹錦の顔が、夢の中では恐ろしいほど鮮明に浮かび上がってくる。
(決して忘れることのできない、いや、忘れてはならぬ悪夢だ――)

「孔明さま!」
すぐ側の闇の中に、陳涛の声がして、孔明は現実に引き戻された。
「一大事にございます」
語尾がかすれていた。めったに感情を表に出さぬ男が、明らかに動揺を隠し切れずにいる。
「一大事とは、夷陵か? もしや、殿の身に何か――?」
「陸遜の火攻めに遭い、我が軍は大敗いたしました。八方手を尽くしておりますが、玄徳さまの安否も未だ掴めませぬ」
「それは、まことか?」
夢で自分の名を呼んだ劉備の声音が、ひときわ鮮やかに、耳朶によみがえってきた。
痛いほど胸が騒ぐ。否定しても否定しても湧き上がってくる暗い予感に、孔明はおののいた。
「直ちに軍を率いて、白亭城に参る。皆に知らせよ!」
「お待ちくだされ。これは、我が配下の耳目からの知らせにて、まだ正式に伝令が届いたわけではありませぬ。帝もご無事に帰還しておられるやもしれず、どうか今しばらく、事態がはっきりするまでは――」
「そうか。そうだな……」
気休めにすぎないとわかっていても、今の孔明には、陳涛の言葉がありがたかった。たとえわずかな可能性でも、最後の最後まで希望を失いたくない。
「では、趙雲をここへ呼んでくれぬか」
「承知いたしました」
答えるやいなや、陳涛は風のように部屋から出て行き、孔明はひとり、闇の中に取り残された。
このような事態をまったく予測していなかったわけではない。だが、真正面から受け止めるには、あまりにも衝撃が大きすぎる。
長い時間、蒸し暑い部屋の中で、孔明はひとり、歯の根が合わぬほどに震えていた。

◇◆◇

一時は生死さえも不明と伝えられた蜀帝劉備が、無事に戦場を脱して白帝城に帰還したとの知らせに、孔明らが安堵の胸を撫で下ろしたのも束の間、敗戦の心労からか、劉備はそのまま病床に臥してしまい、年が改まっても、成都に戻ることはできなかった。

「丞相。帝のもとには参られぬのですか?」
丞相府の執務室で、孔明は馬謖と二人、山のように積まれた書簡を処理していた。
「できることなら、今すぐ鳥になって翔けてゆきたいほどじゃ。だが……」
成都を放り出しては行けぬ、という言葉を、孔明は喉の奥で飲み込んだ。
夷陵の大敗による痛手は、予想以上に深刻だった。あるいは、と皆が期待していた荊州奪還の望みは完全に潰え、将兵や戦費の損失はあまりにも甚大だった。
さらには、北の魏が、この戦の結末をじっと見据えているに違いないのだ。今は、少しの隙も見せられない。一刻も早く呉と和平を結び、国内の動揺を抑え、国力の損耗を回復しなければならなかった。
「何と多くの有為の人材を失ってしまったことか。悔やんでも悔やみきれぬ。――そなたの兄も、残念なことをした」
馬謖の兄であり、その才を白眉と称えられた馬良に、孔明は厚い信頼を寄せていた。今回の出陣に際しても、成都に残らねばならない自分の代わりに、馬良を参謀として劉備に同行させたのである。その馬良も、夷陵で帰らぬ人となってしまった。
「これからは、私が兄の分まで丞相のために働きます。むろん、まだまだ兄の足元にも及ばぬことは承知していますが、……少しでも丞相のお役に立てるよう、身命をなげうって尽力いたします」
馬謖の言葉は、しだいに熱を帯びた。
(孔明先生は、己が身を削るようにして日夜政務に励んでおられる。そのご苦労を、ほんの少しでも私が担ってさしあげられるなら――我が命に換えられるものなら!)

馬良の存在は、馬謖にとって誇りであると同時に、容易には越えがたい大きな壁でもあった。どんなに努力しても、ようやく追いついたと思った時には、兄はいつも自分より一段高い場所に立っているのだった。
追いかけて追いかけ続けて、ついに捕まえることができなかった兄、馬良の死。これを試練と見るか、あるいは千載一遇の好機と見るか。
馬謖の心に、かつてない気負いと矜持が膨らんだ。
「どうぞ私に、丞相の重荷をともに背負わせてくださいませ」
「その言葉、今の私には何よりも心強い。うれしく思うぞ」
「丞相!」
馬謖は、孔明を見上げて感泣した。自分の中の兄の影が、一回り小さくなったように思える。
「ただ、まだまだそなたには経験が足りぬ。実際の戦や国同士の駆け引きは、机上の理論どおりにはならぬもの。ましてや人を動かすとなれば、一筋縄ではゆかぬ。馬良でさえ、夷陵の敗戦は防げなかったのだ」
言ってから、孔明は唇を噛んだ。
すべての責任が自分にあるのだということは、痛いほどわかっている。あの時、劉備を止めることができたのは、自分しかいなかった。やはり命を投げ出してでも、この戦を止めるべきだったのか。
「今まで以上に精進いたします。一日も早く、丞相のお役に立ちたいのです」
「あせらずともよい。私と違って、そなたには時間がある。じっくりと学べばよいのだ、幼常」
何かに憑かれたように、熱を帯びた双眸を輝かせる若い弟子の顔を、孔明は幾分うらやましげに眺めた。
(若いというのは、それだけでうらやましいことだ。おそらく、私と玄徳さまに残された時間は、もうそれほどあるまい――)
遠く東の地で病床に臥せっている主の無念を思い、また、かの人と出会ってからの宿縁の深さを思い、孔明の心は千路に乱れるのであった。




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