いにしえ・夢語りHOME蜀錦の庭姜維立志伝目次

姜維立志伝
第五章 大志あり



<1>

世界が燃えていた。
空も大地も、視界のすべてが紅蓮の炎に包まれている。
「これまでか……。もういけねえ」
劉備玄徳は、深いため息とともに天を仰いだ。

二二一年秋。蜀漢の帝位についた劉備は、孔明や趙雲の反対を押し切り、義弟関羽の仇を討つため呉に出兵する。七十万の大軍で攻め寄せた劉備に対し、呉の総大将陸遜は徹底した持久戦に持ち込む作戦をとった。
長江の北岸、夷陵において対峙した両軍は、半年あまりも睨み合いを続けたが、翌二二二年六月に至り、炎暑の続く中、蜀軍の疲労が極まったと見た陸遜は、一気に総攻撃をしかけた。長江沿いに築かれた蜀軍の四十余の屯営は、敵の火攻めによって次々に殲滅され、劉備は壊滅的な大敗を喫したのだった。
やっとの思いで戦場から落ち延びた劉備を、なお行く先々で伏兵が待ち構えていた。わずかに付き従っていた味方の兵とも、いつしか分断されている。
ただ一騎となったかれは、前後に迫る炎の渦を見やりながら、茫然と己の最期を考えていた。
「乱世に生きる男なら、戦で命を落とすことなんぞ恐れはしねえが、ただ、志を果たせずに終わっちまうことだけが、口惜しくてならねえ」
口調が、無頼の昔に戻っている。
「あれだけ大口を叩いて出てきたっていうのに……。俺のわがままを黙って聞いてくれた孔明に、会わせる顔がねえなあ」
その時、ふいに背後の山陰から人の叫ぶ声がした。
「劉玄徳さま! 最後まで諦めてはなりません。こちらに活路がございます。私をお信じになって、こちらへお越しくだされ!」
声のする方を見やると、まだ二十歳になるやならずの若者が、しきりに馬上で手を振っている。不思議なことに、その周囲だけは火に包まれていないようだった。
「ええい、ままよ!」
疑っている暇はなかった。万が一敵の罠だったとしても、これ以上状況が悪くなるはずもない。
次の瞬間、劉備は大きく鞭をくれると、その若者が指し示す方向へ馬を走らせた。
「私の後にお続きください」
無我夢中――。頭上に降りかかる火の粉を払い、燃え上がる木立の下をくぐり抜け、必死に若者の後を追った。

どれくらい駆けたか。
「待て。もう、続かねえ――」
劉備は、崩れるように馬の背から滑り落ちると、前をゆく若者の背中に向かって大声で叫んだ。緊張と疲労で、息が上がりかけている。目の前が暗くなり、今にも心臓が爆発しそうだ。
「大丈夫ですか?」
若者は慌てて馬首を返すと、飛ぶように駆け戻ってきた。さあ、と差し出された竹筒に入った水を、劉備はむさぼるように飲み干した。
「ここまで来れば、もはや敵も追いついてはこないでしょう。ご安心なさいませ」
「お主は何者だ? なぜ、俺を助けてくれる?」
「名乗るほどの者ではありません。あなたさまをお救いしたのは、私の気まぐれです」
「気まぐれ、か」
ようやく人心地がついたのか、劉備は眼前の屈強な若者をまじまじと見つめ、安堵の息をついた。
午後の陽を背にして、生真面目な顔で立っている若者。劉備の窮地を救ったのは、一段とたくましさを増した姜維伯約だった。
「その気まぐれのおかげで、一度は諦めた命を拾えたのだからな。礼を言うぞ」
「どうぞ、お気になさらずに。今の間に腹ごしらえをしておきましょうか。半日も駆ければ、お味方の軍に出会えるでしょう」
伯約は、手早く火を起こすと、慣れた手つきで鍋に湯を沸かした。干し肉と野菜を放り込んだ鍋が、やがていい匂いをたて始める。
貧しい食事だったが、敗走の身には十分すぎる馳走だ。劉備は、気まぐれな若者に出会えたことに、そして未だ自分の天命が尽きなかったことに、素直に感謝した。
「義勇軍に加わった頃は、野営ばかりで、いつもこんな食事だったな。俺たちは、しょっちゅう腹をすかしていたものだ」
夢中で粥をすすっていた手を止め、劉備は遠い眼をした。
「だが、それでも、俺たちには夢があった。関羽も張飛も、文句ひとつ言わずについてきてくれた」
二人の義弟の名を口にしたとたん、劉備の双眸は暗い翳に覆われた。
昔日、桃園で義を結んだ関羽も張飛も、もうこの世にはいない。

「――その夢、あなたさまの夢の形を見せていただきたい」
突然の、思いがけない言葉に、驚いて顔を上げると、伯約が挑むような眼で劉備を見つめていた。
「先刻は、気まぐれなどと申し上げましたが、本心ではありません。本当は、あなたさまにこのような所で死んでいただきたくなかったからです。玄徳さまの夢、その大志のゆく末を、しかとこの目で確かめねばならぬ理由(わけ)がありますゆえ」
「俺の大志のゆく末だと?」
「はい」
「そんなもの、お前に何の関係がある?」
劉備は面倒くさそうに、その場にごろりと横になった。いつの間にか日が翳って、涼しい風が吹いてきた。鍋は空になっている。
「私は、曹操の魏こそが天下を統一すべきだと思っていました。分断され、蹂躙され、乱れに乱れた今の世の中を変えるには、無理やりにでも、強大な力でひとつにまとめるしかない。それができるのは、曹操だけだと。失礼かもしれませんが、私には、なぜあなたが、いつまでも曹操に対抗して無駄な戦を続けるのかわからなかった」
劉備は、ふふんと鼻先で笑い、眼を閉じた。
「そうかもしれねえなあ。俺自身、なぜこんなことをしているのか、時々わからなくなるんだからな」
ほろ苦い笑いがこみ上げてきた。口調がすでに、皇帝のものではなくなっている。
「しかし、ある人に一喝されたのです。武力で統一された天下は、やがてより強い武力によって覆される。それでは、いつまで経っても平和は来ないと。その人は、玄徳公の大志こそが、武力によらずにこの世界を変え得る力を持っているのだと、私に言いたかったのでしょう」
それゆえ、そのゆく末を見極めなくてはならないのだと、伯約は言った。
「本当に、あなたの理想がこの世界を変えることができるのか、そんな夢のような話が実現できるのか――。それを見届けるまでは、あなたに死なれては困るのです」
「お主にそう言ったのは、孔明だな?」
劉備が身を起こした。今までになく真剣な眼だった。
「俺の夢に形を与え、漠然とした願いに大志などという名をつけたのは、そもそも孔明だ。あの野郎、自分のことを棚に上げて、荷物は全部俺に預けていきやがる」
その眼が、かすかに笑っている。
「夢のゆく末か……。天下のためとか、漢室の再興とか、そんなご大層なものが始めからあったわけじゃねえさ。ただ、世の中が乱れるたびに、いわれのない苦しみにさらされなきゃならねえ奴らが哀れだった。俺自身も含めてな」
劉備は、足元の草を手折り、口に含んだ。噛むと、舌先に苦い味が広がった。
「俺は黄巾賊に無二の親友を殺されたんだ。俺が義勇軍に志願したのは、その復讐のためだった。孔明は孔明で、曹操に恨みを持ってたようだ。出会った頃の孔明は、怖いくらいの眼をしてやがった。あいつは曹操と戦うために、俺に仕官したんだろう。たぶん、始めはな」

◇◆◇

劉備は、初めて諸葛孔明と対面した日のことを、今でもはっきりと覚えている。
隆中の片田舎に住む、質素な草庵の主は、年のわりに大人びた雰囲気の、ひどく醒めた眼をした若者だった。
「私は、どなたにもお仕えするつもりはありません」
礼を尽くした劉備の招聘は、言下に一蹴された。
「失礼ながら、私には、劉皇叔のお力をもってしても今の乱世が治まるとは思えません。まして浅学非才のこの身など、何のお役に立ちましょうや?」
頑なに固辞する孔明を翻意させるため、劉備は二度、三度とかれの草庵を訪れては、説得に言葉を尽くした。執拗な訪問に、始めは迷惑そうな顔をしていた孔明も、やがて少しずつ胸襟を開き始めた。
そうして語り合ううちに、孔明が曹操に対して深い遺恨を抱いていること、乱れきった世の中に絶望しつつも、なお諦めきれない忸怩たる思いを胸の底に沈めていることを見抜いたのだった。

幾度目かに訪ねた時、孔明はまるで待ちかねていたかのように、裏山の梅畑に劉備を誘った。
まだ春は浅い。風はさすがに冷たいが、ほころび始めた梅の花が、辺りに馥郁たる香りを漂わせていた。その花の下に、ささやかな酒席が設けられている。
「ずいぶんと手廻しがいいじゃねえか」
「今日あたり、お越しになるのではないかと思っておりましたので」
温めた酒を酌み交わしながら、二人はとりとめのない話に時を忘れた。
「不思議ですね。初めはあれほど疎ましく思われたのに、今はこうしてあなたさまと会うのが楽しみになってきたのですから」
「ほう。うれしいことを言ってくれるねえ」
劉備玄徳は、不思議な男だった。孔明がこれまで出会ったどんな君主とも違っていた。 中山靖王劉勝の末裔と称してはいるが、もともとは無頼の徒を集めて馬商人の用心棒のような仕事をしていたという。
豪快に飲み、喰らい、心のままに笑い、怒り、泣き、わめく。育ちがそのまま服を着ているようなものだが、不思議とそれが、少しも不快ではない。
――天衣無縫というのだろうな。
孔明は、自分にないものを持つ劉備をうらやましく思った。こればかりは、持って生まれた人の器というものだろう。

劉備と話していると、自分が抱えている悩みやこだわりなど、ほんの小さなことに思えてくる。側にいるだけで、一度は失ってしまった自信を取り戻せそうな気になるのだ。昨日までは、己の存在に絶望し、冷笑し、打ちひしがれていたのに。
温かい懐に包まれるような安堵感と、世界に色彩が戻ってきたような新鮮な驚き。枯れた泉に、みるみる清水が噴き出すごとく、突然、湧き上がってきた感情に、孔明はとまどった。
(この人なら、私のことをわかってくれるのではないか――)
あるいは劉備玄徳と一緒なら、打ち捨てるようにして諦めた未来を、もう一度、夢見ることができるだろうか。
「大切なものを失ってきたのは、お前さんだけじゃねえよ。だが、そんな悲しい思いをする人間を、もうこれ以上増やしたくないとは思わねえか」
劉備の言葉には、儀礼や虚飾ではない真実の重みがあった。
「そのために何ができるのか、自分にどれだけの力があるのか、そんなことは俺にだってわからねえ。身の程知らずの、とんでもねえ夢だと、世間は笑うだろう。だが、俺は、後悔したくねえんだ。立ち止まって何もしなかったことを悔やむより、前に進んで倒れた方がいい。男なら、そうじゃねえか?」
途中から、孔明はもう劉備の話を聞いてはいなかった。ただ、噴き上げるような熱い意志だけが胸を満たしている。
(この方について行きたい――)
(この方のお役に立つために、私は今日まで、この田舎で埋もれていたのだ)
突如、孔明はその場に拝跪し、劉備に臣下の礼をとった。
「なにとぞ私を、臣下の端にお加えください。玄徳さまの夢を、私もともに、見せていただきとうございます」
――諸葛亮は、今日より、天翔る龍とならん。
こうして孔明は、劉備軍の軍師となったのである。

◇◆◇

あの日以来、孔明は軍師として、また幕僚として、粉骨砕身、劉備を支えてきた。劉備もまた、孔明を信頼して軍のすべてを任せ、その献策に異を唱えることはなかった。ただ一度、今回の呉への出兵を除いては。
「今度だけは、俺のわがままだった。孔明も(趙雲)子龍も反対したんだが、聞く耳持たずに出て来ちまった。もうこれ以上、誰も失いたくなかったのに……。また大勢、死なせちまったなあ」
劉備の双眸には、伯約には窺い知ることのできない、深い悲しみがあふれていた。
「孔明も俺も、戦の中で、大切なものを数えきれぬくらい失ってきた。だからこそ、力の強い者が弱い者を足蹴にしてのし上がっていく、そんな理不尽な世の中が我慢ならねえんだ」
――この方も、孔明どのと同じく、民衆の側に身を置く人だ。
ようやく伯約にも、劉備や孔明の目指すものが見えてきた。
ただ、天下が統一されるだけでいいというなら、魏こそが、今天下に最も近いといえるだろう。ではなぜ、劉備や孔明はそれを受け入れようとしないのか。それは、為政者として立つ位置が、魏と蜀漢とでは根本的に違うからにほかならない。
「俺に、いや俺たちに志があるとすれば、まっとうな人間がまっとうに生きられる世の中を作りたい、ただそれだけだ」
凛然とした声で言い、劉備はまっすぐに伯約を見つめてきた。その全身から、あふれんばかりの強い意志と、焔のような熱い心が伝わってくる。だがやはり、忍び寄る老いの影は隠せない。
「とは言え、このざまだ――。いつまで経っても、見果てぬ夢だなあ」
劉備は、遠く蜀の方向に視線を移すと、急に老人の顔になり、深いため息をついた。




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