いにしえ・夢語りHOME蜀錦の庭姜維立志伝目次

姜維立志伝
第四章 邂  逅



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「事と次第によっては、あなた様のお命を頂戴する所存」
見知らぬ若い男が、ふいに眼前に現れてそう告げた時も、諸葛亮孔明は不思議と恐れを抱かなかった。
それほど己の生死に対して無頓着というわけではない。
これまで、成都の街中や軍師府の邸内で、さらには宮殿に伺候している時でさえ、身の危険を感じたことは幾度もあった。蜀の軍師である自身の存在が、劉備やこの国にとって、さらには天下に対してどれほどの影響力を持つものか、孔明はよくわかっている。
(自分で思う以上に、この命、値打ちものということか)
身辺は、常に複数の耳目によって警護されていた。孔明自身、守られているという気配すら感じたことはないが、陳涛配下の者が片時も離れることなく、孔明の周囲に目を光らせていたのだ。
今も。背後の草むらの陰と前方の木立の中に、軍師の守護に命を懸けよと命じられている者がいることを、孔明は知っている。
それでも――。
(儂ももう若くない。まして今は、身に寸鉄も帯びてはおらぬ。この者が電光石火の速さで斬りかかってくれば、耳目といえども最初の一撃を防ぐ術はないかもしれぬ)
姜維伯約と名乗った若者は、ゆっくりと槍を構えた。微塵の隙もない、見事な構えだ。静謐の中にも、必死の覚悟が痛いほどに伝わってくる。
かれに、どのような理由があるのかわからない。が、「事と次第によっては」斬られてやってもいいような気分に、いつしか孔明はなっている。

元来孔明には、我が身に関してあまり執着しないところがあった。生死も含めて、地位や財産といったものに対する欲がない。
――人間、死ぬ時は死ぬのだ。
以前、陳涛にそう言って、厳しくたしなめられたことがある。まだ劉備に仕えて間もない頃、荊州を我がものにせんと攻め寄せてきた曹操の大軍に対して、乾坤一擲の戦をしかけようとしていた時のことだ。
出陣に際しての覚悟を述べたつもりだったが、陳涛は、その覚悟がすでに甘いのだと一喝した。
「あなたさまは、どんなことがあっても死んではならぬ方なのです。自身の存在の大きさを、わかっておいでですか?」
生に対する執着。その思いの強い者が結局最後に生き残るのだ、という単純すぎるほどの真理を、この若い軍師の性根に叩き込んでおかねばならぬ、と陳涛は思った。
「いったい孔明どのは、何のために劉皇叔にお仕えなされたのか?乱世を収め、万民が平和に暮らせる泰平の世を築かんとする皇叔の理想に共感し、その実現に力を尽くすためでしょう」
「このようなところで命を落としては、皇叔のこれまでのご苦労も、三顧の至誠も、さらにあなたが心血を注いだ天下三分の計も、すべてが水泡に帰してしまうのですぞ!」
「一軍の軍師たる者、軽々しく己の死を口に出すものではありませぬ。孔明どのの命は、もはやあなた一人のものにあらず。どのような時も、決して己の命を軽々に扱われてはなりません」
兄とも慕う人に諄々と諭されては、返す言葉がない。以後孔明は、できる限り身辺に注意を払い、危険と思われる場所へは不用意に近づかないようにしている。
とはいえ、これほど鮮やかに「お命頂戴仕る」などと言われると、「それもよいか」とつい頷いてしまうところなど、まだまだ甘いと陳涛なら顔をしかめるに違いない。

「姜維とやら。そなたにどのような理由があるかは知らぬが――」
孔明は、頭の中に陳涛の渋面を思い浮かべた。
「残念ながらこの命、それほど簡単にくれてやるわけにはゆかぬな」
その言葉に、伯約は大きく眼を見開き、一槍を握り締める手に力を込めた。
「では、それがしの問いにお答えいただきたい」
「よかろう。何なりと訊ねてみよ」
伯約は、思うさま、己の思いを孔明にぶつけた。今日まで目にしてきた戦乱の世の民衆の悲惨を。心の底から沸き起こる疑問を、怒りを、そして悲しみを。
あなたは間違っている。なぜ、魏に抗していつまでも無益な戦を続けるのか。いたずらに天下を分断し、民衆を苦しめるのか――と。
「天下は統一されなければなりません。今、天下の趨勢は魏に傾き、もはやその流れを変えることはできますまい。魏国による天下統一をもってしか、今の世の混乱を収めることはできぬはず。それ以外に民の安寧を求める道はないのだということを、なぜ認めようとされぬ?」
如何――?と詰め寄る肩先に、殺気が揺らいだ。
「この疑問に、納得のいく答えを頂けぬその時は、あなた様のお命を頂戴するつもりで参りました。それこそが天下のため、と確信いたしますゆえ」
伯約の槍は微動だにせず、孔明の心臓を狙い続けている。

◇◆◇

諸葛亮孔明と姜維伯約。
かつて陳涛が「志を同じくする」と言った二人が、ついに相まみえた。ただ、陳涛が願っていた出会いとは、まったく様相を異にするものではあったが。
伯約の発する殺気が、痛いほどに夜気を震わせる。尋常ならざる空気を察してか、虫さえも声をひそめている。息苦しいほどの静寂の中、孔明は、静かに顔を上げた。
「そなたの言わんとすることはよくわかった。では今度は私が訊こう。そも姜維、秦の始皇帝の下で、人々は幸福であったか?」
「それは……」
「私はこれまで、曹操と正式に対面したことは一度もない。だが、夢の中では幾度も対峙してきた。いつも同じ夢、何度も何度も繰り返し見た悪夢だ」
それは、徐州の記憶だった。
孔明がまだ少年だった頃、曹操が徐州の牧陶謙を攻める場面に遭遇したことがある。
事の起こりは、徐州領内を通りがかった曹操の父親が、手違いから陶謙の部下に殺されてしまったことだ。激怒した曹操は、復讐戦と称し、大軍を率いて徐州に殺到した。
もともと曹操の性情には、多分に病的な激しさが内包されていたが、この時の激情はほとんど狂気に近かった。自分でも歯止めをかけられなかったのだろう。
徐州に侵攻した曹操軍は、町という町を焼き尽くし、住民を殺戮し尽くしながら、陶謙の居城に迫った。結果、数十万の罪もない男女が殺されたという。
孔明は、その余燼がまだ冷めやらぬ徐州下ヒの光景を目の当たりにしたのだ。この時の強烈な印象は、数十年経った今でもなお、かれの脳裏に焼き付いて消えない。
街は焼かれて瓦礫の山だった。黒く焦げた土の上には、葬る人もない無数の死骸が打ち捨てられている。その多くは、雨にさらされ、鳥に喰われて、半ば白骨化していた。
そんな、大人でさえ目を覆わずにはいられない凄愴たる情景に、だが、孔明は顔をそむけなかった。
(曹操は、許せない――)
子供心にも、恐怖より義憤を覚えた。どのような事情があったにせよ、これほどの行為は、人間としてあるまじきことではないか。
後に、荊州の伏龍として諸葛亮の名が高まるにつれ、あちこちから仕官の誘いがかかるようになり、曹操からも何度か招聘の使いがあった。しかし孔明は、それだけは頑なに拒み通した。

「曹操は、確かに一代の英雄かもしれぬ。だが、かれと私では志が違う。その拠って立つところが、根本的に違うのだ」
曹操にだけは、天下を取らせてはならない――。徐州の夢を見るたびに、その思いは鉄石のものとなった。孔明はあくまで曹操に拮抗する道を選んだのである。
「徐州で、私は人間の心に棲む悪鬼を見たと思う。人々が営々として築いてきたものすべてを、戦火は一日で灰燼に帰してしまう。多くの民草のささやかな幸福を、一瞬で葬り去ってしまう。下ヒの廃墟に立った時、私の耳には確かに、幾百万の民衆の呻き、嘆き、声なき声が響いてきた。そしてその声は、今も絶えることなく聞こえている。そなたが今日まで何を見、何を聞き、どのように考えてきたかは知らぬ。だが、私や漢中王(劉備)は、そなたより遥かに多くのものを受け止めてきたのだ」
「……」
孔明の口を通して語られる徐州の惨状に、いつしか伯約は、梨梨の村の悲劇を思い起こしていた。
「魏は、覇道の国ぞ。力をもって支配する王の下では、決して民の幸福は望めぬ」
――力が支配する世界。
曹操が目指し、曹丕が受け継いだものは、弱者が強者の糧となる覇道の世界なのか?
力で頂点に立った者は、いずれまた次の強者に取って代わられる。それでは、いつまでたっても平和は来ない。
闇の彼方に、牙狼の哄笑が聞こえたような気がした。
「確かに、天下の安定なくして民衆の安寧はない。だが、国の基たる民が幸福に暮らせぬような国家など、存在する価値もあるまい。そのようなことさえわからぬとは……。そなた、今日まで何を見てきた?」
孔明は、右手の白羽扇を伯約の胸元に突きつけると、よく通る声で一喝した。
「出直して参れっ!」
孔明の声は、雷(いかづち)となって伯約の胸を貫いた。

◇◆◇

「それがしの見立て違いでしたろうか?」
いつの間に来たのか、陳涛が影のように孔明の後ろに立っている。
ひと月ほど前から成都に戻っていたかれは、軍師府の警護に着いていた耳目から異変の知らせを受け、駆けつけてきたのだ。
(あっ)
琴を置いた卓を挟んで、孔明と対峙している侵入者が、かつて親交のあった姜維伯約だと気づいて、陳涛は驚愕した。しかも伯約の手には、槍が握られている。
(血迷ったか――?)
すぐにも二人の間に割って入りたい焦燥を歯の裏でこらえて、陳涛は辛抱強く、孔明と伯約のやりとりを見守った。
やがて孔明に一喝され、伯約は黙ってその場を立ち去っていった。血が滲むほどに唇を噛み締め、眼を怒らせて。
「あれが、陳兄の言うていた大器じゃな」
振り向いた孔明の頬には、うっすらと血の気が差している。
「己の不明、恥じ入ります」
「何の、さすがは陳兄。その慧眼、感じ入った」
「は?」
「姜維が申しておったこと、あれこそが真実なのだ。天下は統一されなければならぬ。そうでなければ、この世から戦はなくならぬ。天下三分など、子供騙しの愚計にすぎぬと、私自身、心のどこかで気づいていたことだ」
いともあっさり看破されたわ、と孔明は苦い笑いを浮かべた。
「わかっているのだ。今、天下にもっとも近いところにいるのが、魏王曹丕だということは。だが、私は、この孔明は、どうしても曹操を英雄だとは認められぬ。かの者が創った魏を、この国の社稷として認めることはできぬ!」

徐州の悪夢は、その後の孔明の生き方を決定づけたといっていい。
父が死んだ後、孔明は、故郷瑯邪を離れ、兄諸葛謹や義母とも別れて、叔父とともに荊州に向かうことになった。途中下ヒに立ち寄り、叔父と旧知の間柄である陳家に数日逗留したのだが、その時一行の世話をしてくれたのが、陳涛とその妹紹錦だった。
やがて孔明たちが下ヒを発ってひと月、徐州が曹操に蹂躙されたという噂を聞いた。
叔父が止めるのも聞かず、下ヒに駆けつけた孔明が見たものは。
――この世の地獄だ。
廃墟となった城下を、幾日も陳家の消息を尋ね歩き、奇跡的に再会した陳涛から、紹錦の死を知らされたのだった。
「孔明どの――。妹のことは、もうお忘れくだされ。あれが運命だったのです」
「陳兄。あなたがそう言ってくれる気持ちはありがたいが……。私は死ぬまで忘れることはできぬであろう。あの日のあの光景が、二十年以上経った今でもはっきりと思い浮かぶのだ」
紹錦とは、ほんの数日をともに過ごしたにすぎない。二歳年上だというその少女に孔明が覚えたのは、恋とも呼べぬような淡い想いだったろう。孤児(みなしご)が母を慕う情に似ている。
その想いを、曹操が打ち砕いた。
「私には、玄徳公を輔けて漢室再興という大義をなすなどという資格はないのかもしれぬな。天下国家の安定よりも、己の私怨にとらわれている小さな男だ」
孔明は、乾いた笑い声をたてた。
「あやつ、この孔明などより、よほど器が大きいわ。真剣に今の世を憂え、民衆を救いたいと願っておる。若さゆえの怖いもの知らずとも言えようが、がむしゃらに、だがひたすらに、天下の安定を望んでおる」
孔明の視線は、今しがた眼前からかき消えてしまった若者の姿を追うように、遠くに投げられていた。
「よい眼をしておった……。昔の私のように、濁りのない眼で天下を見ている」
姜維伯約という若者に対して、陳涛が抱いたのと同様の感触を、孔明も覚えたのだ。同じものを求めているという共感、あるいはもっと漠然とした、希望のようなものだったかもしれない。
「陳兄。これからも、かの者を見守ってやってくれ。いつか、私の力になってくれる日もあろう」
「承知仕りました」
陳涛は、畏敬の念を込めて、孤高の軍師に深く頭を下げた。

◇◆◇

「若!無事で――?」
宿に戻ってきた伯約の顔を見るなり、絶句したイルジュンは、次の瞬間、若い主の体にしがみついてきた。
「よかった……!」
後は言葉にならない。一度に緊張が解けたのか、崩れるように座り込んでしまったイルジュンの眼から、滂沱の涙が溢れ落ちた。
「イルジュン、すまぬ。心配をかけた」
「もう、会えぬかと思っていた。本当に」
若は無茶ばかりする、と泣き笑いするイルジュンに、伯約は、今夜の孔明とのやりとりを、包み隠さず話して聞かせた。
「それで、若は黙って帰ってきたわけか。それにしても、よく首が繋がっていたものだ」
軽く揶揄しながらも、イルジュンの口調には安堵の思いがあふれている。
「むろん、諸葛亮の言葉がすべて正しいとは思えない。何しろ、天下の策士だからな」
孔明の反駁に、心底納得したわけではない。しかし、心のどこかで激しく波立つものがあるのを、伯約は感じていた。どこの誰とも知れぬ侵入者に対して、嘘偽りのない心中を真摯に語ってくれたその人の大きさに、眼が覚める思いだった。
間近に見た孔明の双眸に映っていたのは、確かに、戦乱の世を憂える深い悲嘆だ。
――あれは、為政者の眼ではなかった。俺と同じ悲しみを、憤りを、かれも抱いているのか。運命に流されていくしかない、力弱い民草に対する悲哀を……。
かつて陳涛が言った「あなたと孔明さまは志を同じうする者」という言葉が、初めて現実味を帯びてよみがえってきた。
(もう少し、見ていよう……。劉備と諸葛亮の目指す道を)
今一度、新たな感性で天下の姿を眺めてみたい、と伯約は思った。孔明が投げかけた問いに、はっきりと答える力量を身につけるためにも。
「また、旅だな」
小さくつぶやき、振り向いた主の顔が、今までになく清々しいものに思えて、イルジュンは慈しむような微笑を返していた。



語り部のつぶやき…。
ようやく、ようやく出会った姜維と孔明。もしかして、これが最初で最後の(?)山場になってしまうのか?
というのは冗談ですが……。実は、この続き(第5章)がまだ途中までしか書けていません。という訳で、これからはますます更新がカメになるかも……と思われます。
次は劉備と孔明の白帝城での別れを書こうと思っているのですが。一日も早くアップできるようにがんばりますので、今後ともどうぞよろしくお願いします。



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