姜維立志伝 |
第三章 天地慟哭す |
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悪夢は、突然やってきた。 恐れていた野盗の襲撃。予期せぬ早さで、そして予想以上の残虐さで。 急ごしらえの防御策は、かれらの闘志を萎えさせるどころか、かえってその凶暴性に火をつける結果になったかもしれない。 闇夜の奇襲だった。 怒涛のような勢いで騎馬の男たちが襲いかかり、外側の柵は苦もなく引き倒された。応戦の暇も与えない手際のよさだ。 最初の襲撃の後、息つくひまもなく第二波がきた。柵を守っていた村人たちは、次々に馬蹄に蹂躙され、矢の標的となって倒れた。 「若! これは、ただの野盗ではないぞ」 望楼から駆け降りてきたイルジュンが、血走った目で叫ぶ。 「確かに、手ごわいな」 ――強すぎる。 個々の獲物や力量だけではない。攻撃の手順、引き際のよさ、一人一人の動きに恐ろしく統率がとれている。まるで、厳しく調練された軍隊を相手にしているようだった。 (最初の攻撃さえしのげれば、相手の士気は落ちるはず。そして、俺の手で首領を叩き潰せば、後は烏合の衆だ) そんな戦う前のもくろみは、もろくも崩れた。たかが野盗と甘く見ていた自分に伯約はほぞをかんだが、時はすでに遅い。 野盗の圧倒的な強さに、村人たちは抵抗する気力さえ吹き飛び、逃げ惑っている。 火矢が打ち込まれ始めた。藁葺きの家が、一つまた一つ炎を吹き上げていく。 「柵が破られれば終わりだぞ!」 「イルジュン、お前は女たちを逃がせ。できるだけ遠くへだ。それから、梨梨を頼む!」 「若は?」 「俺か。俺は――」 背後に渦巻く紅蓮の炎に照らされ、伯約の眼光が不敵な輝きを放っていた。 「牙狼の首を取る!」 「無茶だ。相手の居場所もわからぬのに」 必死で止めようとするイルジュンの手を振り切り、伯約は馬に飛び乗った。手には父の形見の業物一振り。 「奴の居場所ならわかっている。敵陣の一番奥、あの丘の上だ!」 指さす彼方に、篝火が燃えている。その篝火の下、冷酷な目で手下の殺戮を眺めている男の姿までも、伯約には見えるような気がした。 敵が野盗の群れだという感覚は、すでに伯約の中から消えている。今自分が対峙しているのは、これまでに見たこともないような精強な騎馬隊だ。闘志がふつふつと燃え、指先まで血がたぎっていた。 ――これは戦だ。ならば、大将は本陣にいる。 (姜維伯約、初陣!) 頭上で大剣を抜き放ち、思い切りよく馬腹を蹴る。馬は矢のように、群がる敵の真っ只中へ突っ込んでいった。 血しぶき。 怒号。 肉が断ち切られる鈍い音。 地鳴りが天地を揺るがす。 矢が顔をかすめ、太刀が頭上を襲う。槍が闇の中から突き出される。 向かうところすべて敵――。 だが、伯約には勝算があった。賊のほとんどは村を攻めているはずだ。つまり、この囲みさえ破ってしまえば、後はさしたる抵抗もなく、首領のところまでたどり着けると。 斬っても斬っても、新たに現れて行く手を塞ぐ敵影をものともせず、伯約はただ一騎、前へ前へと突き進んでいく。 野盗たちは明らかに動揺していた。何が起きているのか。何が進んでくるのか。 大海を割るように、次々に仲間が倒れ、蹴散らされていくのだ。 「止めろっ!」 「通すな!」 「頭のところへ行かせてはならぬ」 ついに――。 包囲が破れた。 重囲から躍り出た伯約は、なおも追いすがる敵を突き倒し、払いのけ、鞭も折れよとばかりに疾駆した。 ◇◆◇ 漆黒の闇の中、どのくらい駆けただろう。 やがて、遠く小さかった篝火が眼前に大きく迫ってきた。勢いよく燃える火が、かたわらに立つ一人の男の姿を映し出している。 伯約はようやく馬脚を緩め、篝火に向かって歩を進めた。 黒ずくめの鎧に身を包んだ長身の男は、周囲の闇に溶け込むように、彫像のごとく屹立していた。周りには誰もいない。己の腕によほどの自信があるのだろう。 それまで気配すら感じさせなかった男が、一瞬、刺すような眼光で伯約を射貫いた。それだけで、伯約は全身の体毛がそそけ立つほどの異様な感覚にとらわれた。馬さえおびえて後ずさるばかりの殺気。 「やるな、小僧」 地の底から湧いてくるような酷薄な声が響いた。伯約は胴震いし、大きく息を吸い込んだ。ようやく乱戦の興奮が静まり、心気が冴え渡っていく。 「貴様が牙狼か」 「俺の名前を知っていて一人でここまで来るとは、たいした度胸だ。ほめてやろう」 牙狼と十数歩の距離をとり、伯約は馬を降りた。息を整え、剣を構える。剣も柄も、おびただしい返り血に濡れていた。 「貴様、ただの盗賊ではないな。何のために村を襲う?」 「聞いてどうする?」 「これから俺が斬る男の、最後の理屈だけは聞いておいてやろうと思ったまでだ」 牙狼はせせら笑った。 「それならば俺も聞いてやらねばならんな。今すぐに、俺の一撃で魂を消し飛ばす男のたわごとを――。お前は村の人間ではあるまい。なぜ命をはって村を守ろうとする?」 「村人に恩を受けた……いや、そうでなくとも、人の難儀を黙って見過ごすわけにはいかぬ」 「それは、損な性分だ」 言い終わらぬうち――。牙狼の槍が疾風となって伯約の手元をかすめた。 あっと跳び退ると、狙いすましたように次から次へと突いてくる。 (速い!) 目にも止まらぬ連続攻撃をかわしつつ、一瞬、相手の隙をついて懐に飛び込む。 渾身の一撃。だが、伯約の剣は空しく空を切っていた。 「小僧! どこを狙っている?」 頭上から、牙狼の哄笑が降ってきた。 「死ねい!」 信じられない速さで襲ってくる穂先を、身をひねってかわす。振り向きざま、斜めに斬り上げた剣に、手ごたえがあった。 (――やったか?) だが、その剣先は牙狼の頬をかすっただけだった。次の瞬間、顔を覆った頭巾が裂け、褐色のただれた肌が露出した。 「―――!」 牙狼の顔。一度目にすれば、一生忘れられまい。 顎から頬にかけて皮膚が醜くよじれ、唇は吊り上がり、人の顔とも思えなかった。一目で火傷の跡だとわかる。 ただれた肉塊の中で、感情のない眼が、暗い洞窟のように伯約に向けられていた。 「俺の素顔を見た者で、生きている奴はおらん。覚悟することだ」 「お主がこんなことをしているのは、その顔のせいか?」 牙狼はふたたび哄笑した。 「憐れんでいるのか? 自分を殺す男を。滑稽な奴だな。そのような甘さでは、この乱世を生きてはゆけぬぞ」 「………」 「俺は、乱世に生まれ合わせたことを幸運だと思っている。強き者のみが生き残る今の世こそ、俺に最もふさわしい世界だからだ」 感情のない眸に、一瞬憎悪の炎が燃えたように見えた。 「この顔の傷も、己の生まれや育ちも、今の俺には何の関係もない。親の付けてくれた名など、とうの昔に忘れたわ。牙狼の名は、俺自身が己の生き様にあった呼び名をつけたまで。乱れきった今の世に、ふさわしい名だと思わぬか?」 牙狼がそこまで言う間に、伯約は体勢を立て直し、剣を握り直した。 (この男には憐憫も情けもいらぬ。そんなものとは無縁の世界で生きている男だ――) 冷や汗が背筋を伝うのがわかった。 ――俺は、負けるかもしれない。 かすかに、身の内から死の匂いがした。 「弱者は強者の肥やしになるのが今の世の真実。ならば、村人への同情などはいらざるものだ」 ゆっくりと、牙狼が槍を構える。 「今度こそ、死ねいっ!」 牙狼の全身から発せられたすさまじい闘気が、伯約の体を打ち震わせた。 ――我が司馬一族が天下を取るのを、あの世で見るがいい。 耳底に響いたのは、殺到する牙狼の声にならない声だったか。 (司馬一族……司馬……司馬懿か?) 電光の速さで顔面に迫る穂先、その奥に暝く光る眼の色までがはっきりと見える。 ――くっ。 次の瞬間、名状しがたい衝撃が襲い、伯約は地に叩きつけられた。防いだ剣は遠く弾き飛ばされ、牙狼の槍は、伯約の左肩を深々と刺し貫いていた。 「ほう……。まだ息があるのか」 伯約の体から槍を引き抜きながら、牙狼はさも驚いたような声をあげた。 「うまく狙いをはずしたようだな。だがその深手では、どのみち長くはもつまい。このまま捨て置いてもよいが、いっそひと思いに楽にしてやるのがお前のためか」 「………」 痛みは麻痺していた。負傷した肩よりもむしろ、まったく相手にならなかった技量の差を思い知らされたことの方がつらい。 瀕死の身を起こし、苦しい息の下から伯約は問いかけた。 「貴様、魏の……、司馬氏の人間か? それならば、なぜ、盗賊のまねなどして罪もない村を襲うのだ?」 「確かに俺は司馬氏の者だ。だが、今の俺には魏も蜀も関係ない!」 牙狼は乾いた声で言い放った。 「この街道は、いずれ劉備と戦うときに重要な拠点となる。だから今のうちに、我らに都合のよいように整備しているまでよ」 「整備――だと?」 それだけの理由で、いくつもの村を焼き、何の罪もない村人を殺したというのか? 「牙狼――。許さん!」 噴き上げる怒りで視界が真っ赤になった。 どこにそれだけの力が残っていたのか。伯約は、身を引きずるようにして弾き飛ばされた剣を拾いあげ、立ち上がった。 その様を、牙狼は冷笑しながら見ている。 「死に損ないにしてはいい闘気だ。だが、怒りは判断を曇らせ、技を鈍らせる。怒りにまかせたその剣では、この俺は倒せぬぞ」 牙狼の顔に、酷薄な笑みが浮かんだ。 「まして、その傷ではな」 剣が重い。全身の力が萎えている。立っているのが、やっとだった。 そこへ――。 疾風の速さで、牙狼の槍が襲う。 (だめだ。今度こそ、やられる……!) 伯約が観念の眼を閉じたそのとき。 突如、目の前の大地が、轟音とともに弾け飛んだ。濛々と舞い上がる砂煙の中から、忽然と湧き上がった騎馬の影。 「おのれ、何者だ?」 爆風に顔を歪め、牙狼が叫ぶ。 「………」 馬上の男は無言のまま、牙狼の足元に黒い固まりを投げつけた。 再び、大地が揺れた……。 ――姜郎、お気を確かに。 駆け寄った影に腕をすくわれ、伯約は馬の背に抱き上げられた。 ――この場はそれがしにおまかせを。 (たれ……だ?) 見たことのない男だった。だが、今の伯約には詮索する気力さえ残っていない。 牙狼に貫かれた左肩と、そして無念の傷を負った心が、血を流し続けている。 見知らぬ男に身をゆだねたまま、気が遠くなり、ついに伯約は昏倒した。 |
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