いにしえ・夢語りHOME蜀錦の庭姜維立志伝目次

姜維立志伝
第三章 天地慟哭す



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山中を進むこと四日、もうあと少しで蜀との国境に出るという所まで来て、不覚にも伯約は病に臥せってしまった。
イルジュンが懸命に看病したが、五日たっても熱が引かず、食べ物も喉を通らない。始めは旅の疲れくらいに軽く考えていた伯約も、ついには死を覚悟したほどだ。
死ぬことを恐れてはいないつもりだった。だが、いざ己の死に正面から向き合ってみると、母愛玲の面影とともに、やり切れないはがゆさがこみあげてきた。
(こんな所で死ぬのか――。男児として生を受け、まだ何もしていない。このままでは母上に申し訳が立たぬ)
母への思いが、かれをこの世に引きとどめたのかもしれない。七日目、ようやく熱が下がり始め、伯約は生気を取り戻した。とはいえ、旅をするのはまだとても無理だろう。
イルジュンは、しばらく伯約が静養するための宿を貸してもらえるよう、街道脇の小さな村に話をつけに行った。しばらくして、かれは頬を紅潮させて戻ってきた。
「若、村長(むらおさ)が承知してくれた。これで雨露がしのげる。引き受けてくれたのは村外れのひどいあばら家だが、野宿することを思えば贅沢はいえぬからな」
「イルジュン、世話をかけてすまぬ」
ふだん寡黙な西羌人が、村長を説得するためにどれほどの熱弁を奮ったか、何も聞かなくても伯約には分かる。かれは忠実無比な下僕に心の中で頭を垂れた。
イルジュンは手早く旅装をまとめ、伯約を抱きかかえるようにして馬に乗った。

街道からはずれて五里ほど行くと、深く穿たれた急流につきあたる。渓流に沿って狭く開けた谷あいに、肩を寄せるようにして三十軒足らずの家が散らばっていた。
その家は、村の一番奥の外れにあった。傾きかけた壁土はところどころ剥がれ落ち、藁葺きの屋根も朽ちかけている。人が住んでいるかどうかも疑わしいほどの荒れようだ。
イルジュンが訪いを入れると、一人の少女が顔をのぞかせた。
「あ……。村長から話は聞いてるから。汚い所だけど、入ってくださいな」
年の頃は伯約より二つ三つ下くらいか。見るからに貧しい身なりだったが、貧弱な体つきとうす汚れた顔の中で、よく動く瞳だけが生気にあふれて美しかった。
「おっ母さん、さっき村長が言ってたお客人だよ」
伯約たちを迎え入れてくれたのは、梨梨という名の少女と年老いた母親だった。
「汚くて狭いとこだけど、さあどうぞ。遠慮は……してないよね」
奥の部屋には形ばかりの床がのべてある。イルジュンに支えられ、やっとという感じでそこに倒れ込んだ伯約は、もう目を開けていることもできなかった。

◇◆◇

夢を、見ていた――。
懐かしい故郷の山河、姜家村の家、父母の面影……。
ふいに草原が開け、野生馬の群れが怒涛となって視界を横切っていく。裸馬に乗り、目の前を駆けていくのは、黒髪を風になびかせた羌族の女。ふと横顔が微笑んだような気がした。
(母上――!)
追いすがろうとして目が覚めた。
頭も手足も、体全体が自分のものではないようだ。息をするのさえおっくうだった。
(俺は母の顔さえ覚えていない。だから夢の中でも、顔が分からないらしい……)
涙があふれた。朦朧とした意識の中で、伯約はただ訳もなく悲しかった。
――母上。あなたは幸せでしたか?
自分を生んだ母は、どんな思いで父についてきたのだろう。どんな思いで漢人の子を生み、そして逝ったのか。自分をこの世に生み出すためだけに存在したかのような、母の命のはかなさ。
今まで心の外に置き忘れていたことどもが、次々に胸にあふれてくる。病のせいで気が弱くなっているのかもしれない。
「気がついた?」
しだいにはっきりと覚醒してくる視界の先に、心配そうな梨梨の顔があった。その面差しが、ふいに胸の中にしまってある懐かしい女性の面影と重なった。
(春英……)
今頃どうしているだろう?
そのひとに会いたかった。両腕に抱き締めたかった。
かなわぬ夢、遠い日の幻影に目頭が熱くなる。今まで、これほどの思いで誰かを恋うたことはなかっただろう。
「どこか痛むの?」
「いや、――大丈夫だ」
伯約は、春英の面影を振り払うと、あわてて作った笑顔を少女に向けた。

梨梨は、素性も知れない旅人に対して、無防備といっていいほど好意的だった。彼女の献身的な看護で伯約はめきめき良くなり、十日も経つころにはほとんど常と変わらぬほどに回復した。
「兄さま――」
と、少女は伯約のことを呼び慕った。
「兄さまは、どうして旅なんかしているの? お役人に追われているの?」
梨梨が不思議がるのも無理はない。当節、流れているのは、食い詰め者かお尋ね者と決まっている。旅は好き好んでするものではなく、やむを得ず身を投じるものだったのだ。
「梨梨には分からないかもしれないが……。俺はこの目で世の中の本当の姿を見たかったんだ。だからあちこち旅して、いろんなものを学んでいる」
「ふうん。でも危ないこともあるでしょ」
「そうだな。危険なことも嫌なこともあるけど、反対にいいこともたくさんある。梨梨に出会えたこともその一つだ」
伯約の言葉に少女が頬を染める。伯約も、放浪の中で長らく忘れていた安らぎを、久しぶりにかみしめていた。

そんな穏やかなひとときを破ったのは、外から帰ってきたイルジュンの声だ。
「若。村長から、少し気になることを聞いてきた」
イルジュンの話は、近頃このあたりを荒らしている盗賊団の噂だった。
「二百人あまりの賊で、首領は牙狼と呼ばれているそうだ。ついこの間も、この近くの村が襲われたらしい」
「あたしも聞いたことがある」
梨梨が不安げな面持ちで言った。
「そいつらは盗むだけじゃない。家を焼き払い、女子どもまで皆殺しにするって。根絶やしにされた村も二つや三つじゃないって」
「ひどい奴らだな」
旅の中で何度も見てきた。野盗に襲われ、全滅した村を。かろうじて生き残った村人たちの悲痛な慟哭を。そのたびに、何もできない自分の無力さを憤ってきたのである。
「………」
黙ってしまった梨梨の体が、小さく震えている。牙狼の標的は、明日はこの村かも知れないのだ。
農民たちは、戦や天災から逃れる術を知らない。身をかがめ、息をひそめて、災厄が通り過ぎるのをじっと待ち、耐えるしかない。そんな力弱き者の宿命を、梨梨は肌で感じ取っているようだった。
そのやせた肩を、伯約の両手が包み込む。
「大丈夫だ、梨梨。この村は俺が守る」
「本当に?」
「ああ。約束する」
双眸に自負の光がみなぎった。口元にはかれた微笑は、けして少女を安心させるためだけのものではない。
「ついこの間まで死にかけていた男の言葉とは思えぬな」
イルジュンが皮肉をこめてたしなめたが、伯約は気にもとめなかった。
――絶対に、守ってみせる!
十八歳の伯約には、まだ自分には無限の力があると信じることができるのだった。

つぎの日から、伯約は村人たちを指揮し、村を防御する備えを作り始めた。
柵を二重に巡らし、簡単な堀を掘るだけでも、最初の攻撃を防ぐ効果はある。身を隠せる壕や抜け道も作った。重労働だったが、皆よく指図に従って働いた。
作業の合間には、付け焼き刃だが武術も教えた。むろん訓練された兵卒のようなわけにはいかない。それでも若い男たちの中には、そこそこ使える者も出てきた。
(襲わせぬことが第一だ。隙がなければ、奴らも無理をして襲っては来まい)
どんな豪傑も己一人の力では、二百人もの野盗を防ぎきることはできない。だが、皆が力を合わせれば……。
自分が去った後も、村人たちが自衛できるだけの備えはしておいてやりたい。
それが梨梨に、そしてこの村に対する伯約の恩返しだった。




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