いにしえ・夢語りHOME蜀錦の庭姜維立志伝目次

姜維立志伝
第三章 天地慟哭す



<1>

行けども行けども山また山。漢中は山の中に籠められたごとき国である。
北には秦嶺の峰々が連なり、南は大巴山脈から延びた山並みに囲まれた間を、漢水の流れにそって盆地が細長く開けている。
その漢中から南に向かう嶮峻な杣道を、蜀へと辿る二騎の馬影があった。故郷冀県を出奔し、漂泊の旅人となった姜維伯約と下僕のイルジュンである。
母に別れを告げてからすでに季節は一巡し、二度目の夏を迎えようとしていた。
故郷を出た伯約は、まず長安から洛陽へと魏領内を廻り、次いで徐州から揚州の建業へと足を延ばした。さらに長江を溯り、荊州を経て一旦雍州に戻った後、秦嶺山脈を越えて十日ほど前に漢中に入ったのである。

気楽な物見遊山の旅ではない。一年半の苛酷な放浪生活は、伯約の風貌を、生真面目さの残る少年から精悍な若武者のそれへと変えていた。さらには、旅の途中で目にしたものすべてが、伯約にとって鮮烈な驚きとなった。
魏都洛陽の絢爛、呉の水軍の威容――。話に聞くばかりだった景色が、現実のものとして己の目の前にあるのだ。太古から暴れ竜と懼れられた黄河の奔流、記憶に新しい赤壁の戦場跡を洗う長江の悠久の流れも、目蓋に焼きついている。
それにも増して、伯約の心の眼を開かせたのは、行く先々で目の当たりにする民衆の窮状だった。黄巾の乱以来、止むことのない戦乱で土地は荒廃し、天災と疫病がその惨状にさらに追い打ちをかけた。
戦火に家を焼かれ、農地を奪われた農民は、住み慣れた土地を捨てて難民とならざるをえない。流亡の果てに病に斃れる者、餓死する者、あるいは奴隷となる者――。
大陸のどこを巡っても、山野には、かれらの怨嗟の声が満ち満ちていた。
(いつの世も、戦になれば、困窮するのは名も無い民草だ……)
働き手の男たちが兵役に取られる上に、非常時の税の徴収は苛酷を極める。君主にとって領民など、搾取の対象でしかないのだ。
そんな場面に行き当たるたび、伯約は民衆の痛みに肺腑をえぐられ、かつ何もできない己の無力さに歯がみした。
――俺は、何としてもこの世から戦をなくしたい。かれらの辛苦を救いたい!
いいしれない憤りとともに、かれは濁りのない正義感を胸中にたぎらせた。
(そのためには、今のままではだめだ。力が無くては何もできぬ。俺自身、天下に立つ人物にならなくては……)
放浪の旅の空の下で、伯約は初めて、心の底から力を欲していた。天下を動かし、世の中を変えられるほどの力を。
いつ来るか知れぬ天の恩寵を待つよりも、己の力に賭けてみたいと思った。たとえそれが、若者らしい純粋さが見せた夢にすぎないのだとしても――。

◇◆◇

伯約が、その身を引き締める思いで、見果てぬ夢を描くようになったのは、荊州で劉備の軍勢を目にしたのがきっかけだった。
荊州の領内を通ったとき、偶然、新兵の調練を閲兵する関羽の雄姿を間近に見る機会を得たのである。
荊州軍の練兵はさすがに峻烈だった。指揮をとっているのは、おそらく関羽の息子の関平だろう。号令一下、前進、後退、反転と、兵たちの動きには少しの無駄もない。
将士も兵卒も、恐いほどの目つきをしていた。それも道理、命令に従わぬ者、ついてゆけぬ者は、容赦なく打ち殺されるのだ。実際の戦において、一人の油断が全軍の士気を乱し、一人の遅れが一部隊を壊滅させることもある。それを思えば、決して非情な調練とはいえまい。
伯約は目の覚めるような思いで、目前で行われている練兵を見つめていた。
劉備軍の強さは、関羽、張飛、趙雲といった武将個人の勇猛さだけにあるのではない。将の命令が歩兵の末端に至るまで瞬時に届き、すべての兵が一糸乱れずその指示どおりに動く。用兵の基本といってもいい当たり前のことが、見事なまでに訓練され徹底されているのだった。
――これが、流浪の将軍劉備を乱戦の中で生き延びさせ、ついには一方の雄にまで押し上げた劉備軍の強さか。
ある程度の訓練を終えた兵たちは、仕上げとして、日に百里を進む行軍を行うという。実戦さながら、文字通り命懸けの行軍を五日も続けているうちに、兵の動きは目に見えてよくなってくるらしい。ここで耐えた者は、戦に出ても死なずにすむといわれていた。

城下で聞いたそんな話を思い出しながら、ふと視線を遠くに投げたその時――。
燃えるような赤毛の馬にまたがって長駆してくる一人の武将の姿を目にして、伯約は息をのんだ。
髪を包んだ紫の巾が風をはらみ、手に持った青竜偃月刀が陽光をはね返して燦然ときらめく。漆黒の長髯を風になびかせ、悠然と馬を駆る姿は、はるか遠くにあってさえ圧倒的な存在感だった。大地の一角にその姿が現れたというだけで、兵たちの士気はいうまでもなく、空気までもがはりつめた。
(あれが――関羽将軍、そして曹操から賜ったという赤兎馬か)
日に千里を駆けるという伝説の名馬。炎を思わせる毛並みから赤兎と名付けられたその馬は、かつて世に比類なき猛将と恐れられた呂布の騎馬だった。関羽が一時降伏して曹操の下にいた時、その歓心を得るためにと、曹操が関羽に贈ったのである。
赤兎馬は、伯約とイルジュンのすぐ前を風のように駆け抜けていく。馬上の将軍は、路傍に立つ二人の若者に、ちらりと一瞥をくれたようだった。少し遅れて、旗本と思われる騎馬の一陣が土煙をあげて続いた。
「イルジュン、見たか!」
伯約はいいしれない興奮に声を弾ませた。茫然と関羽の後ろ姿を見送りながら、わけもなく心が高ぶっている。
(これは、夢だ――)
男の全身から発せられる、圧倒的な強さ。まさに、不可能を可能にし、世界をひれ伏させるほどの――。
関羽の強さがあれば、この天下が救えるのではあるまいか。惨たる民衆の苦しみを。
――いいや、夢ではない、決して。この漢(おとこ)たちが天下を動かしているのだ。関羽、諸葛亮とて生身の人間ではないか。人が造り、人が動かすこの世なら、あるいは俺も、その一翼を担えるか?
人がどのような夢を望んでもよいというのであれば、眼前の関羽の雄姿こそ伯約の夢そのものだったかもしれない。
振り返ると、いつもはあまり感情を表さぬ西羌人が、このときばかりは恍惚として土煙の彼方を眺めている。
「――聞きしに勝るすごい馬だ」
イルジュンは赤兎馬に感動しているらしかった。馬とともに暮らしてきた民族の血であろう。
(見るところが違う、か……)
伯約は声をたてて笑った。そしてこの時から、かれの志操は具体的な色彩を帯び始めたのである。




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