姜維立志伝 |
第二章 母の悲しみ |
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母の秘密。その原因が自分にあるかもしれないという疑念が、いっそう伯約の気持ちを苛立たせていた。 だが、いざとなると、母に事の真偽を糾す勇気もなく、また家を出る踏ん切りもつかないまま、鬱々とした思いで旬日が過ぎた。 その日は、明け方から寒々とした雲が大地を覆い、間断なく吹きつける北風が、本格的な冬の到来を告げていた。 母は朝からそわそわとして落ち着かない。午後から隣県に住む友人を訪ねるという伯約の予定を、やたらと気にかけている様子だった。 「母上。何かお心にかかることでもおありですか?」 「いえ……、そのようなことはありませぬ。ただ、そなたが遠出をするというのに、雪になりそうな空模様が気がかりで」 「大丈夫ですよ、私なら。遠出といってもすぐ隣の県城まで行くだけですし、雪道には慣れています」 「そう……そうですね。でも、気をつけて」 返す声もどこか上ずっている。愛玲の気がかりは、どこかほかのところにあるらしい。 母の心配どおり、午後からは雪になった。視界がさえぎられるほどの降り方ではなかったが、冷たい大地に落ちた雪片はたちまち凍りつき、あたりを白一色に染めた。 伯約は、装束を整えて馬に乗り、一旦村外れまで出掛けた。だが、そこで馬首を返したかれは、隣県には向かわず、そのままこっそりと引き返し、家の近くの納屋に身を潜めたのだった。 納屋の隅に積み上げられた藁の上にごろりと長身を横たえ、伯約は眼を閉じた。 (母上に、嘘をついた――) 男に抱かれてあえいでいる母の姿が脳裏をよぎる。振り払っても振り払っても、母の幻影は消えなかった。 ――くそっ! その日の空よりも冷たく重い暗雲が、伯約の胸中を覆っている。 夕暮れということもあって、城内の北外れあたりには人影もまばらだった。雪はとうにやんでいる。愛玲はいつものように、夕闇に紛れてそっと馬遵の屋敷の裏門を出た。 溶けかけた雪がぬかるんで道が悪い。足元を気にしながら、一つ目の角を曲がろうとしたところで、思いもかけぬものを目にして、彼女の総身は凍りついた。 「維児……?まさか――お前なの!」 土塀の向こう側、木の下闇の中に立っているのは、けしてここで姿を見られてはならぬ息子ではないか。 「母上――」 眉を寄せ、何かを噛み殺したような表情で、それでも精一杯冷静を装いながら、伯約は近づいてくる。 「夜道は危のうございますゆえ、お迎えに参りました」 「そう……。ありがとう」 なぜ、と問えもしない。取り繕う言葉もみつからない。消えてしまいたかったが、そんなことができるはずもない。身の内から血の引く音が聞こえ、胸が潰れるほどの苦しさに、愛玲はよろめいた。 目前まで来て立ち止まった伯約は、そんな母に手をかそうともせず、 「あちらに馬を繋いでいます」 乾いた声でそれだけ言うと、くるりと踵を返し、さっさと先に立って歩きだした。 (この子は、すべて知っているのだ……) 有無をいわせぬ強引さを装う息子の心中が哀れだった。愛玲は、ほとんど人形のように機械的に、前を行く伯約の背中だけを見て後に従った。 その背中が叫んでいる。 ――なぜです?なぜこんなことを? と。 いつか、この日が来るだろうとは思っていた。思いながら、後ろめたさに苛まれる被虐を心のどこかで楽しんでいたかもしれない自分を、愛玲は感じている。だが、本当に息子に知られたときの覚悟が、自分にできていただろうか。 ふいに視界がぼやけた。 「維児。母さんを……許して」 「母上が謝られる必要などありません。謝らねばならないのは私の方です」 ようやく立ち止まった伯約は、母の哀訴に背を向けたまま答えた。いつの間にか厚みを増し、父親そっくりになった後ろ姿に、愛玲はまた目蓋を濡らした。 その息子の肩が、小刻みに震えている。 「いつまでも仕官もできずに……、私が不甲斐ないから――」 伯約は本当に腹の底から怒っていた。母にこんな行動をとらせてしまった無力な自分自身に。そして、今また母を欺いてまで、その罪を白日の下に曝そうとしている己の破廉恥さに。 (俺は、母上を死ぬほど苦しめている。これは息子として、許されるふるまいではない) イルジュンの忠告に耳を貸すべきだったのか。若さゆえの残酷さが、苦い後悔となって胸の底に充満した。 「母は心得違いをしていたのです。愚かな妄執に取り憑かれて……。今さら何を言っても、言い訳にしかならぬでしょうけれど」 「母上」 ようやくのことで振り向いた伯約の眸子には、悲愴な決意が満ちていた。 「維は、家を出ます」 「そう……」 母は、驚かなかった。 「母上を苦しめ、悲しませ……、その上まだこのようなわがままを申し上げて。――身勝手ばかりの私をお許しください」 「そなたの人生なのだもの。悔いの無いように、そなたの思うように生きればよい。母は何もしてやれなかった……。それどころか、そなたの枷になってしまっていた。己の愚かさに、今ようやく気がつきました」 愛玲は、自分よりはるかに上背のある息子を見上げるようにして、寂しげに微笑った。 「イルジュンを連れてお行き。あれは役に立つ者だから」 「それでは母上がご不自由でしょう」 「母のことは心配せずともよい。それより、そなたこそ身体に気をつけて……。このような世の中ゆえ」 母はもう泣いてはいない。常のごとく、顔をまっすぐに上げ、凜とした声で言った。 ◇◆◇ 二日後の朝、伯約はイルジュンとともに馬上の人となった。 愛玲は、家の外まで出て二人を見送ることをしなかった。門の手前で息子の出立を待っていた母は、黙って革袋に入った路銀を伯約の手に持たせた。おそらくは家にある財産のすべてだっただろう。 「母上、一つだけお聞かせください。私を生んだ女を憎んでおいででしたか?」 「憎むなどと……。ミルトゥどのは、わたくしにかけがえのないものを与えてくださったのですよ。そなたという宝物を」 「そのお言葉、忘れません」 母の深い慈愛に胸が熱くなり、伯約は声をつまらせた。 「これにてお暇いたします。母上、いつまでもお達者で――。おさらば!」 自身を励ますように語気を改めると、伯約は馬を引いて外に出た。門の陰に立つ母は身じろぎもせず、まさに今、自分の掌から飛び立とうとする息子の姿を凝視している。 (母上……) 伯約は、心の中で深々と頭を下げた。つぎの瞬間、馬腹を蹴ったかれは、もはや後ろを振り返らなかった。 母と暮らした姜家村の家々は、すぐに遠く小さくなり、丘陵の稜線に隠れてしまった。 生きてふたたび、この地を踏むことがあるのだろうか。父母の思い出と、自分の青春の日々を埋めた、懐かしい故郷の大地を。 だが、振り向くまい。 目の前には、乳色の朝靄に包まれた、渺漠とした天地が広がっている。それは、無限の未来でもあった。今こそ、この世界を自由に駆けられるのだ。 伯約の横には、長身のイルジュンがぴったりと馬をつけている。 「冬の旅は辛いぞ。若はどこへ向かうつもりだ。あてはあるのか?」 「まずは、洛陽の都へ。その後は……、江南へ避寒にでも行くか!」 「気楽なことだな。だが、江南にたどり着く頃には夏になっているぞ」 くびきから解き放たれ、浮き立つような主の気持ちが、こちらにまで伝わってくるようだ。イルジュンは、すっぽりと顔を覆った頭巾の下で薄く微笑した。 姜維伯約が郷里を出奔したという知らせは、冀県に住む「草」の手によってすぐさま陳涛の下にもたらされた。 陳涛は、配下の中で最も信頼のおける耳目を選び、伯約の身辺警護の任を授けた。 「心せよ。側にいることを決して悟られてはならぬ。常はただ遠くから様子を伺い、万一何か大事あるときは、一命をなげうってでもその方を守護するのだ」 「委細承知――」 いらえの声だけを残し、耳目は風のように走り去った。 「眠れる獅子、いよいよ目覚めるか……。姜維伯約、一日も早う臥竜先生にお引き会わせしたいものよ」 |
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語り部のつぶやき…。 はあ〜〜。第2章終了です。この章はちょっぴり大人向けでしたね(笑)。 若くて熱くて青臭い姜維と、クールな大人でありながら内面に複雑なものを抱えた孔明。直球ストライクと癖のある変化球というところでしょうか。 まだまだお話が平板ですみません。長大なプロローグその2、ですね(爆)。いつになったら、盛り上がるんだろう?と作者自身やきもきしている次第ですが、ようやく母上の手元から飛び立つことができた姜維。次回からは若さ爆発!本領発揮で、どんどん暴れてくれると思います。 次章では、姜維の宿命のライバルになる人物が登場。ますますシバレン調時代活劇になっていく予感が……。 なにはともあれ、乞うご期待! |
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