姜維立志伝 |
第二章 母の悲しみ |
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「………」 愛玲は、あえぎながら、喉の奥で必死に声を噛み殺していた。声をあげれば、今自分を蹂躙している卑劣な男の暴力に屈することになる。 たとえ理不尽な要求に肉体は汚されても、心の貞操だけは許してはならぬ。その思いだけが、汚辱の中で愛玲を支えている。 「そなたを、こうしてこの手に抱くことが、二十年来の儂の夢だった……。その日が現実に来ようとは」 男は息を弾ませながら、女の敏感な部分に執拗な愛撫を加え続ける。 「愛玲――」 相手が無抵抗なのをよいことに、男は思うさま女体を弄び、やがて果てた。愛玲は、その瞬間も、きつく目蓋を閉じたまま何の反応も示さなかった。 男が身繕いをする間も、女は薄絹をまとっただけの身を起こすことさえしない。魂が抜け落ちてしまったかのような愛玲に、ねっとりとした視線をからませて男がささやいた。 「愛玲。また逢うてくれるな」 「………」 「伯約のことは悪いようにはせぬ。儂に任せておけばよい。だから、よいな――」 伯約という名を耳にした途端、愛玲は身を震わせ、閉じた双眸から堰を切ったように涙をしたたらせた。 「このような卑怯ななさり様は……、郡の太守とも思えませぬ……。これ以上、わたくしにどうせよと言われるのですか」 絶え入らんばかりに身を縮めて嗚咽する女を見やりながら、男は傲然と頭を上げた。 「如何にも、儂は天水郡太守である。部下の任官罷免、すべて儂の一存で決まるのじゃ。そなたもそのことを承知で、ここに参ったのであろうが――」 男の名は馬遵。愛玲の夫姜冏とはかつての同僚であり、ともに愛玲を己が妻にと争った仲でもあった。 「そなたが儂よりも冏を選んだと知ったときは、嫉妬に目が眩んだわ。以来、幾人の女をこの手に抱き、どれほどの美女を我が物としても、この胸の痛みは癒せなんだ……」 馬遵の双眸に凶暴な色が滲んだ。 「二十年来恋い焦がれた女から文が届いたときは、正直、夢かと思うたぞ」 ――わたくしは、何と愚かな……。 顔見知りである太守にすがれば、息子の任官が叶うのではないかと考えた自分の浅はかさに、愛玲は唇を噛んだ。 伯約のことで折り入って話があると呼び出されたのは、冀城の城下外れにある馬遵の別邸だった。言葉巧みに酒を勧められ、酔ったところを無理矢理犯されてしまったのだ。抵抗する暇もなかったといっていい。 疑いもせず男の誘いに乗った己の軽挙が、今さらながら悔やまれる。 「それならば、もう思いは遂げられたのでございましょう?」 愛玲は、怒りと悲しみに燃える眸子を上げた。そのおとがいに、馬遵が手をかける。 「何を言う。やっと手に入れた獲物じゃ。もう放しはせぬぞ。憎い冏も、今はこの世におらぬ。愛玲よ、息子を仕官させたいのなら、黙って儂の言うとおりにすることだ」 そのまま上を向かせ、男はもう一度、愛玲の朱唇を貪った。 ◇◆◇ 晩秋の日は短い。 夕闇の迫る土間の片隅で豆を挽きながら、愛玲はぼんやりと自分の手を見ていた。日に焼け、水仕事に荒れ、薄いしみや皺さえ刻まれた手だ。 わけもなく、涙が頬を濡らした。 (なぜあの時、わたくしは舌を噛んででも死ななかったのか――) そればかりではない。その後も幾度か、馬遵の求めに応じて逢瀬を重ねている。 (わたくしは、どうしてしまったのだろう?維児の、あの子の仕官を得るため――? いいえ、違う!) 「違うわ……」 初めて馬遵の暴力に屈した時、男に組み敷かれながら、堅く閉じた目蓋の裏に息子の顔を思い浮かべて耐えたはずだった。 だが、その幻影がいつしか夫姜冏の面影になり、つぎに伯約を生んだ羌族の女の顔に変わったとき、ふっと抵抗する力が抜け落ちていくのを感じた。 ――わたくしは、心のどこかであの方を、そして己の血を引かぬあの子を、憎んでいたのかもしれない……。 愛玲と姜冏は、この時代には珍しく、互いに望み望まれて契った夫婦だった。 どれほど愛する夫の子どもを生み、育てたかったことか。だが、嫁いですぐ身籠った赤子を流産して以来、愛玲は子を生めぬ身体になってしまっていた。姜冏はそんな妻をいたわってはくれたが、子どものいない寂しさは埋めようもなかった。 やがて、半年あまりの間上司に従って西域の巡察に出ていた夫が帰還したとき、かれは羌族の女を伴っていた。さらに、その女は夫の子を宿しているという――。 気が狂うのではないかと思うほどの衝撃と屈辱に打ちのめされつつ、しかし愛玲は、貞淑な妻の顔で夫を出迎えた。 それからどれほどの年月を、良き妻、賢き母として務めてきたことだろう。その実、凍てついた心の底には、嫉妬が澱のように沈んでいたのだ……。 馬遵は小心で驕慢で、太守の器にはほど遠い男だったが、それでも愛玲を求める情には真摯なものがあった。手段はともかく、彼女を我が物にした刹那、かれは歓喜の涙を流してさえいた。その涙が、愛玲に自死することを思い止まらせたのかもしれない。 いつの間に日が落ちたのか、土間はすっかり暗くなり、手元が定かに見えぬほどになっていた。急に肌寒さを覚え、愛玲はようやく立ち上がった。 豆は、まだ半分以上残っている。 ◇◆◇ 母の様子がどことなくおかしい――。 伯約がまず気づいたのは、化粧だった。父が死んで以来、身を飾ることなどなかった母が、近頃は髪を整え、淡く紅を引いていることさえある。そんな姿を息子に見られると、愛玲は決まってひどくうろたえた素振りを見せるのだ。 さらには、自分のいない間を見計らって、頻繁にどこかへ出かけているらしい。 「イルジュン。お前なら何か知っているだろう。母上はどこへ行っておられるのだ?」 家の裏で畑仕事をしているところを、若い主に問い詰められ、羌人の下僕は重い口を開いた。 「ご城下へ……。どうも太守の別邸に通っておられるらしい」 「太守だと? あの馬遵か?」 評判の良くない男だ。面貌を思い出しただけで、つい語気が荒くなった。 (馬遵は父上とは犬猿の仲だった。太守になれたのも中央に莫大な賄賂を贈ったからだと聞いている。母上も毛嫌いされていたはずなのに、なぜ……。まさか、俺のために?) 「なぜだ?」 「俺は何も知らぬ」 「イルジュン――!」 伯約は思わずイルジュンの衿をつかんでその場に押し倒していた。無意識に、相手の首を締め上げる腕に力がこもる。 激しく身をよじり、咳き込みながら、それでも下僕は無抵抗だった。その双眸に滲む慈悲の色を見た途端、伯約は我に返り、慌てて手を離した。 「手を掛けてすまぬ。お前に怒ってもしかたがないことなのに……」 喉をさすりながらのろのろと身を起こしたイルジュンは、静かに伯約を見上げた。 「主が奴婢に謝ることはない。すぐかっとなるのは、若の昔からの癖だ。悪気がないのは分かっている。気にするな。それより――」 悲しげな眸子のままちょっと考え、選ぶように言葉を継いだ。 「奥様のことはそっとしておいた方がいい」 「何が言いたい?」 「旦那様が亡くなられてもう七年になる。もうそろそろ、良い頃ではないか」 冷たい西風が、乾いた大地の上に立ち尽くす二人の若者の顔を打つように吹き過ぎていく。季節は冬になっていた。 「イルジュン。俺だって、もう子どもじゃない。母上に、いつまでも死んだ父上に貞節を尽くせなどと言うつもりはない」 「それなら……」 (ちがうんだ――!) 伯約は痛いほどに奥歯を噛み締め、胸の内に噴き上がってくる怒りを押し殺すと、 「相手が悪すぎる」 吐き捨てるように言った。 「もし、母上が俺のために馬遵の言いなりになっているとしたらどうだ? 俺の仕官の口を得るために、自分の身を犠牲(にえ)にしたのだとしたら? 真偽はどうあれ、世間はそう思うだろう。俺は、己の出世のために母親を売った不孝者ということになる」 いたたまれぬ思いだった。 そうまでして官位を贖いたいのか。姜の家門を再興したいのか――。母の情念は、自分の肩には重すぎる。 「で、どうするつもりだ」 「母上に確かめる」 「それは……」 イルジュンは、西羌人特有の太い眉を曇らせ、大きく息を吐いた。 「若は――奥様を死なせたいのか?」 「何……?」 母の気性なら有り得ることだ。高峰の断崖に一本、凛然と咲く白梅のような、誇り高い母。その母が、息子に自分の恥を知られて、何事もなく済むはずはなかった。 ――黙って見ぬふりをするのも子の努めだぞ。 異郷人の薄茶色の眸子がそう語っている。むろん伯約も、頭の中だけでなら納得することはできる。だが、理性ではないものが、頑なに肯んじえないのだった。 「……では、俺は黙って家を出る」 「いずれにしても奥様が悲しまれることになるな」 奥歯がぎりっと音をたてた。癖だとわかっていても、イルジュンの冷静な物言いがどうにも癇に障る。彫りの深いその横顔を、もう一度思い切り殴りつけてやりたいという衝動を、伯約はかろうじてこらえた。 |
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