姜維立志伝 |
第一章 関中の風 |
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冀城の城下では、朝と夕方に市が立ち、その賑わいに合わせるように、辻芸人たちが集まってくる。陳涛一座の興行も日に二度。それ以外にも、地元の名士や高官などの屋敷の宴席に招かれることもあった。 辻市の場所へ、あるいは午後の幕舎へ、伯約は幾度も陳涛の元を訪れては、さまざまな話に時を忘れた。少し鬱屈した世間知らずの若者を、一座の人々はいつも温かく迎えてくれる。 「親方、姜郎君のお越しですよ」 「ようお越しくだされました。何よりも春英が喜びましょう」 陳涛の言葉は世辞ではなく、顔を合わせるたび、伯約に対する春英の好意は深まっていくようだった。 だが、二人きりの逢瀬はすぐに過ぎる。話したい言葉はほかにあるのに、貴重な短い時間をらちもない世間話でつぶしてしまうもどかしさ――。 今日も、幕舎の裏の空き地で、春英の奏でる笛に耳をすませながら、心のどこかで別のことを考えている伯約だった。 (いっそこのまま、時が止まってくれぬものか……) ふと、笛の音がやんだ。ふっくらとした紅い唇を歌口に付けたまま、利発そうな黒い眸子がじっとこちらを見ている。 「伯約さまは、もうお心に決められた方がおいでになるのですか?」 あまりに突然の問いに、返す言葉が見つからない。顔と手のひらが熱くなった。 「そ、そなたは、どうなのだ?」 「わたくしは、――秘密!」 少女は無邪気な眸子をくるりと動かし、はじけるような笑みを浮かべた。からかっているのではない。あどけないその笑顔は、伯約に対するありったけの好意の表現なのだ。 陳涛との話のつれづれに、伯約は思い切って春英の身の上を尋ねてみた。 「あれの父親は、宮廷付きの楽人だったそうです。皇帝陛下にもその才を愛でられ、帝ご愛用の名笛を賜ったと聞いております」 「それが、なぜ?」 「詳しくは存じませぬ。帝の側近が企てた曹丞相暗殺の謀略に、父親が加担したとかしなかったとか……、その罪が無実だと分かったのは、両親が処刑された後だったそうでございます」 春英は、幼い弟妹を生きながらえさせるために、自らの身を売ったのだ。陳涛が、洛陽の辻で奴隷として売られようとしている春英に出会ったとき、彼女はまだ七歳だった。 「なにやら、哀れで……。いや、儂らしくもないが」 旅芸人には分不相応な大枚を払って身柄を引き取り、そのまま家に帰してやろうとした陳涛の好意を断って、春英は一座について行くと言い張ってきかなかった。 「今、家に戻っても同じことです。それよりも、一座に加えていただければ、親戚に預けた妹や弟に仕送りもできますから」 そこまで言うにはよほどの訳があったのでございましょう、と陳涛は嘆息した。 伯約はだまって、どこか儚げな春英の横顔を思い浮かべていた。穢れを知らぬ微笑みの裏で、彼女が過ごしてきた月日の過酷さをなぞりながら――。 ◇◆◇ 陳涛との語らいは、伯約にとって、いつも新鮮な驚きだ。都洛陽や各地のさまざまなめずらしい話。古今の戦場譚や英雄譚。魏領内だけにとどまらず、蜀や呉、さらに西域や南蛮まで、話題は尽きることがない。 中でも伯約がことに心を惹かれたのは、劉備玄徳とその一党の足跡だった。陳涛の話術の巧みさは、聞く者を、まるで実際その場にいるような気にさせるのである。 「さて、北方を平定した曹操が、次に荊州を狙って南下してきたとき――」 と、押し寄せる百万の大軍が目に映るがごとく、陳涛は語った。 「劉皇叔は、新野城では防ぎきれぬとて襄陽城へ逃れました。ところが襄陽では、太守の劉表が死に、その後を継いだ劉jが曹操に降伏したため、城内に入ることもできなくなってしまわれたのです」 このとき劉備の軍には、かれを慕う新野、荊州の民が十万余もついてきたという。そのため、一日の行程はわずか十数里しか進めないありさまだった。その間にも、曹操の軍勢は背後に迫ってくる。 やむを得ず、襄陽を去って江陵まで逃げることになり、軍師諸葛亮は劉備に、民衆を捨てていくようにと進言した。このままでは曹軍の追撃を受けて、全滅してしまう――と。 事実この後、当陽の地で曹操軍の騎馬隊に追いつかれた劉備たちは、散々に蹴散らされたのである。大将の劉備でさえ、張飛や趙雲の働きでからくも九死に一生を得るというほどの見事な負け戦だった。 「ところがその軍師の言葉に、玄徳公は顔色を変えてお怒りになったそうです。国家の基本は人民である、自分を慕ってついてきてくれたものを、なぜ捨てていかれようか、と」 ――もし、そのために戦に負けて滅びるというのであれば、民衆とともに死ねばよいだけのことだ。 劉備はそう言い放って、諸葛亮の進言を退けたという。 「それがしこれまで、数え切れぬほどの人物の話を聞き、実際にこの目で見もしてまいりましたが、今の世で真に英雄と呼べるのは、劉皇叔ただお一人かと思います。天下万民のために戦っているお方を英雄と呼ぶのであれば……」 「どうやら、文桓どのは劉備贔屓らしい」 いつになく熱のこもった話しぶりがおかしくて、思わず口をついて出た伯約の揶揄に、陳涛の双眸は一瞬、炯々たる光を帯びた。 「左様、それがしは一庶民にすぎませぬ。されば、天下を思い、民草を憐れんでくださる方の贔屓でござる」 (この人は?ただの旅芸人ではない?) このとき初めて、伯約は目の覚めるような驚きとともに陳涛を見つめなおした。柔和なものごしの奥に、ときおり底光りするような冷徹さが垣間見える瞬間がある。 (劉備や諸葛亮によほど近しい人物……。あるいは蜀の間者か?) ――まあ、それもよかろう。今の俺には、魏も蜀も関係ないことだ。 そんなことよりも――と、湧き上がってくる好奇心の誘惑に、伯約は身震いした。 「ときに。文桓どのは、蜀の軍師を実際に見られたことがおありか」 「諸葛亮、字を孔明。若い頃より、伏龍とも臥龍とも呼ばれた大賢人――」 答える陳涛の表情が、心なしか改まったように見える。 「まだ劉皇叔に迎えられる以前、荊州の隆中に閑居しておられました。故あって、その頃からよく存じております」 「どういうひとです?」 「さあ――」 陳涛は首をひねってみせた。 「ひとことで言うのは難しいが……。ただ。常に大局を見ているお方でござったな」 孔明の双眸は、いつも遠いところを見ていた。隆中の野に晴耕雨読していた頃から今日まで、決して目先の利益や己の富貴に惑わされたことはない。 かれの志はもっと高みにあるのだと、陳涛は思っている。 「蜀の、いや天下の大軍師とは、まさにあの御仁のことでございましょうなあ」 「それほどの軍師なら、なぜ劉備は未だに天下を取れぬのです?」 「はは……。姜郎君、それはちと性急に過ぎるというもの」 詰め寄った伯約の問いは、さらりとかわされてしまった。 「ただ言えることは――、悲しいかな今の蜀には、孔明どのの後を継ぐ軍師、参謀としての人材が乏しいということでござる」 荊州と益州の将を併せて、綺羅星のごとくいる劉備の宿将だが、それでもなお孔明の目にかなう人物はいないのだという。 「伯約どの、いっそ蜀に来て、孔明どのにお仕えなさいませぬか」 「は?」 伯約は狐につままれたような顔になった。とたんに、目の前のどこかとぼけたような顔つきの男の存在が、底無しの闇に包まれているように思えてくる。 「あなたは……蜀の、諸葛亮の細作か?」 「――そう思っていただいて結構でござる」 陳涛はさびた声音で応じた。何を隠すでもなく、取り繕うでもない、威風堂々たる荊州耳目の頭領がそこにいる。 「なぜ、私のような者にそこまで肩入れしてくださるのですか」 「己の器の大きさは、なかなか自分ではわからぬもの……。それがしの目を信じなされ」 陳涛は、静かな情熱をたたえたまなざしをじっと伯約の面にそそいでいたが、 「孔明どのの後を継ぐのは、あなたさまをおいてほかにはござらぬ。――なぜなら、あなたさまが孔明どのと志を同じうする方だからです」 「私が……孔明どのと?」 何をばかな、と頭の隅でもうひとりの伯約が冷笑した。天下第一と称賛される大軍師と一介の書生である自分と、同じ土俵で論じられることすら正気の沙汰とは思えない。 そもそも魏の人間に蜀漢への仕官を勧めるというのも、尋常の神経ではないだろう。 「伯約どの。その眼を開いてしっかりとご覧なされ。今の世に数えきれぬほどの英雄豪傑ありといえど、真に世を憂い、民草を憐れむ者でなければ、国家を統べるという大業は成し得ませぬ」 陳涛の視線は、射抜くような鋭さで、先刻からじっと伯約を凝視している。伯約自身、それと気づかぬ思いの奥底を見透かされているような気がして、かれはあわてて目をそらした。 「あまつさえ帝をないがしろにし、自身の栄達と富貴のために天下を騒がせ、万民を塗炭の苦しみに喘がせている曹操のごときは、大逆非道の極みと言わずして何と申しましょう。このような輩に、天下の政をまかせてよいと思われるか?」 曹操の名を口にしたとき、空を見据える陳涛の眼の底に、肉食獣のような獰猛さがにじんだのを伯約は見逃さなかった。あるいはこれが、この男本来の闇の顔なのだろうか。 「……文桓どのは、曹丞相に恨みでもおありなのですか?」 「左様。恨みは深うござる――」 陳涛は静かにうなずくと、いつの間にか戻った愛嬌のある旅芸人の顔に、染み入るような微笑を浮かべた。 |
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