影媛その1
影媛その2
「昔のお仕事から」シリーズ(笑)
ハイキングのチラシ用に描いた影媛のイラストです。 → チラシはこちらから
当時のお仕事だった「歴史の道ハイキング」のチラシを作るようになって2作目の作品。イラストからコピーからレイアウトから、とにかく全部自分でやってました。思いっきり少女マンガで、おいおい、こんなんで本当にいいのかよ?と内心不安だったのですが(笑)、好きなようにやらせてもらえて幸せでしたね〜〜。
第2回 歴史の道ハイキング 「北・山の辺の道をゆく」
愛するひとの身を案じて 影媛はひた走る
石上から高橋・大宅・春日……
泣きながら 山の辺の道を北へ――
はるかな時を経て 今 この道は
おだやかに温かく 訪れるものを迎えてくれる
円照寺・正暦寺・弘仁寺……
隠れるように山あいに点在する清らかな寺々
深まりゆく秋の足音をたどる旅
◆◆◆
山の辺の道を語るとき、影媛伝説を抜きにしては語れません。
5世紀末、ひとりの美女をめぐって2人の男が争った悲劇を「日本書紀」は伝えています。
女は物部(もののべ)氏の娘 影媛。争ったのはときの皇太子(後の武烈天皇)と、朝廷の権力者だった平群真鳥臣(へぐりのまとりのおみ)の子 鮪(しび)でした。海柘榴市(つばいち)の歌垣(かがい)で、すでに影媛の心は鮪のもので、自分の意のままにはならないと知った皇太子はこれを恨み、大伴金村に命じて真鳥を攻め、鮪を乃楽山(ならやま)に追いつめます。
恋人の身を案じて山の辺の道を北へ向かった影媛は、愛する男の無残な死を目にし、泣きながら歌います。
石の上(いすのかみ)布留(ふる)を過ぎて 薦枕(こもまくら)高橋過ぎ
物多(ものさは)に大宅(おおやけ)過ぎ 春日(はるひ)春日(かすが)を過ぎ
妻隠(つまごも)る小佐保(をさほ)を過ぎ (中略)
泣き沾(そぼ)ち行くも 影媛あはれ
海柘榴市から布留、大宅、春日から乃楽山へ――。
影媛がたどったこの道こそ、古代の山の辺の道だったと思われます。
これが影媛の物語。ハイキングのチラシや観光パンフレットに、さんざん利用させていただきました。
(2006/2/8)