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果たせなかった約束
 


 

――だめ。寝付けないわ。

港から吹きつける風が、ドアや窓をガタガタと鳴らしている。
こんな夜は、思い出が胸の底からいっぱいあふれてきて、眠れない。
ベッドの中で転々としていたエリーは、ガウンを引っ掛けると、寝室を抜け出し、階段を下りた。
ランプに灯をともすと、見慣れた情景が浮かび上がった。
無造作に置かれたテーブルと椅子たち。壁いっぱいに造り付けられた棚に、所狭しと並んだびんやグラス。磨きこんで黒光りしているカウンター。
港に停泊する船の乗組員たちを相手にする、小さな港町の小さな酒場。
ここがエリーの仕事場、そして住まいだ。去年の暮れに父親が死んでからは、彼女が一人で切り盛りしている。
エリーは、カウンターに腰掛けて、ぼんやりと棚に並んだラム酒のびんを眺めていた。何を見るでもなく漂っていた視線が、一番下の棚の右端まできて、止まった。
そこにあるのは、ありふれたラムのびんと、ちょっと小ぶりのグラス。
「………」
彼女は黙って立ち上がると、そのびんとグラスを取り上げ、そっとカウンターの上に置いた。
「いつ戻ってきてくれるの? グレー」
声に出したとたん、懐かしい面影が胸の中ではじけた。
このグラスも、あたしも、こんなにあんたを待っているのに――。
いつもこの席に座り、このグラスでラムを飲んでいた男の姿が鮮やかによみがえり、エリーはガウンの袖でそっと目蓋をぬぐった。


「行ってしまうのね」
今にも泣きそうな顔のあたしに、あなたはいつもと変わらない笑顔で言った。
「船乗りは海に出るのが仕事さ」
「そう。そして船乗りの女は、男が帰ってくるのを港で待つのが仕事……」
「わかってるじゃねえか、エリー」
そうよ、わかってる。
あなたはいつだって、あたしのところへ戻ってきてくれたわ。
ずいぶん危険な目にもあったらしいけど、それでも、必ず元気な顔で帰ってきてくれた。
だから今度も、きっとここへ、あたしのところへ、無事に帰ってくる――。

でも、あたしは知ってるの。
今度の旅が、いつもみたいな航海じゃないってことを。
あなたの故郷が独立のために戦っていて、その戦争に加わるために行くんだってことも。
……アイルランド。あなたが生まれた国。
以前の航海で手に入れた莫大なお宝も、すべて独立運動のために寄附したんだってね。
勝ち目のない戦争だって、父さんは言ってた。
それでも、あなたは行くのね。
昔からそうだった。いつも弱い方、旗色の悪い方に味方して。分かっていながら、貧乏くじを引いてしまうようなひとだったわ。

「帰ってくるよ、エリー」
「………」
「約束するよ。何があっても、どんなことをしても、絶対にお前のところへ帰ってくる」
あなたは、とても優しくて哀しい目であたしを見つめた。
そして、旅立っていった。
あれからもう、三年も経ったのよ。手紙は一度来ただけ。
無事でいるの? 怪我をしたり、病気になったりしていない?
どうしてるの? あたしのグレー。



ふいに、ランプの灯芯がジジ……と音を立て、風もないのに揺らめいた。
「グレー? あなたなの?」
なぜそう感じたのかわからない。ただ訳もなく、胸が高鳴る。
エリーは急いで立ち上がると、走っていって店の扉を開けた。
「あ……」
そこには、男が立っていた。
長旅の疲れかちょっとやつれて、汗と埃にまみれたくたびれた服で、けれどとびきりの笑顔で。
「エリー、ただいま」
「グレー!」
一瞬、呆然とし、次の瞬間、エリーはグレーの胸に飛び込んでいた。
何も言葉が出てこない。ただ、涙があふれて、とめどなくあふれて――。

――夢じゃないのね。
――夢じゃないさ。
――ほんとに帰ってきてくれたのね。
――約束したろ。絶対に帰ってくるって。

カウンターのいつもの席に座り、グレーは、彼のグラスで彼のラム酒を飲んだ。何杯も。
この懐かしい光景を、何度思い描いては涙したことだろう。
グレーの隣に座ったエリーは、黙ったまま、身体の芯からにじみ出てくる喜びをかみしめた。
それから、二人は見つめあい、口づけをかわし、エリーのベッドで長い夜を過ごしたのだった。
「エリー。長い間待たせてすまなかった」
濃密な抱擁の後、グレーがおずおずと差し出したのは、桜貝のネックレス。そっとエリーの胸元に着けてくれた。
ひんやりとした感触が、火照った肌に心地いい。
「海の香りがするわ」
「いつもお前のことを思っている。愛しているよ、エリー」
後ろから抱きしめられて、エリーは甘い吐息をつく。
「もう、離さないで……」
返事の代わりに、彼女の首筋に落ちた冷たいしずく。
(――え?)
驚いて振り返ると、男の目が濡れていた。
「どうしたの?」
「………」
エリーの問いには答えず、グレーはもう一度、彼女の身体を強く抱きしめた。


カモメたちの鳴く声で目が覚めた。もう、辺りはすっかり明るくなっている。
しばらく夢見心地でぼんやりしていたが、ふいに、ベッドに寝ているのが自分ひとりだと気づいて、エリーは飛び起きた。
昨夜、確かに隣にいたはずの男の姿が消えている。
「グレー。どこ?」
家中を探し回ったが、懐かしい恋人はどこにもいなかった。
「どこかへ出かけたのかしら。そのうち帰ってくるわね」
気を取り直して店の掃除を始めたエリーだったが、カウンターの上に置かれたびんとグラスを目にしたとたん、彼女の全身は凍りついた。
ラム酒のびんもグラスも、彼女が昨夜、棚から取り出して置いたそのままだったのだ。
「減ってない――」
真夜中に彼が帰ってきて、ここに座って、このグラスでラムを飲んだはずなのに……。
ラム酒のびんは封が切られておらず、グラスも汚れていなかった。
「グレー? うそでしょ……」

そんなはずないわ。
あなたは昨夜、確かにここにいたじゃない。
ラム酒を飲んで、あたしにキスして、あたしを抱いてくれたじゃない。
夢じゃないわ。
あなたの温もりが、今もこの手に残ってる。

「夢なんかじゃない!」
エリーは両手で顔を覆うと、その場に座り込んだ。
「約束したんだもの。絶対に戻ってくるって」
泣き崩れるエリーの胸元で、チリンと乾いた音がした。
「………!」
あわててまさぐる指先に触れたのは、桜貝のネックレス。グレーが着けてくれた――。
それは確かに、昨夜と同じひんやりとした感触で、エリーの首すじを飾っていた。


グレーが戦死したという知らせが、彼の戦友によってエリーの元に届いたのは、それから三ヶ月近く経ってからのことだ。グレーが死んだのは、やはりあの夜だったそうだ。
彼は、窮地に陥った味方を救うため、万に一つも生還の望みのない作戦に志願したのだという。そして見事に務めを果たし、自らは敵の銃弾に斃れたのだった。
「それが不思議なことに――」
と、その男は声を落とした。
「ヤツが死ぬ前の日、自分がもし死んだらあんたに渡してくれって、桜貝のネックレスを預かったんだ。生きて還れるとは思えない決死行だったからな。覚悟してたんだろう」
「………」
「ところが、確かにポケットに入れておいたはずのそのネックレスが、ヤツの死んだ後、煙のように消えちまっててよ。ずいぶん探したんだが、どうしても見つからねえ。そんな訳で、あんたに渡せなくなっちまったんで、それを謝りたくてね……って、おい、大丈夫か?」
話の途中から、ぼろぼろと泣き出したエリーに、男は慌てた。エリーの涙は止まらない。すすり泣きは嗚咽になり、やがて号泣になった。
「すまねえな、エリーさん。身体を大事にな」
泣き止まないエリーに手を焼いた男は、挨拶もそこそこに、そそくさと帰っていった。


――やっぱり、帰ってきてくれたのね。あの晩、あんたは、本当にここにいたんだ……。

胸元のネックレスを握りしめながら、エリーは泣いた。
胸いっぱいに、愛する男への想いがあふれている。
グレーはきっと、最後の最後まで、エリーとの約束を守ろうとしてくれたのだ。彼らしい誠実さで。

お帰りなさい、グレー。
魂だけ、懐かしいこの場所へ。
あたしの胸の中へ――。




 
2006/12/15

 

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