いにしえ夢語り千華繚乱の庭佐和山日和


恋 −守りたいもの−



「左近さま、それは『恋』というもんどすえ」
「恋?」
島左近は、口に運んでいた盃を持つ手を止め、相方の妓女(おんな)を見つめた。
「へえ。うちらの世界では、そういう気持ちを『恋』と呼ぶのんどす」
左近をちらと見やり、女は嫣然と微笑んだ。

そういう気持ち――?

(さて、何の話をしていたのだったか?)
妓楼で、客と妓女が交わす話だ。
ごく普通の世間話をしていたつもりだった左近は、女の口から唐突に出た『恋』という言葉にとまどった。
(ああ、そうだ。殿のことだった)
殿、とは。
先頃、ぜひにと請われて家臣となった、近江水口四万石の領主 石田三成のことである。
その主君との馴れ初めを、問われるままに語って聞かせていたのだった。



大和の筒井家を去って近江高宮郷に隠棲した左近の庵を、三成が尋ねてきたのは、一年あまり前のことだ。
家臣も連れずに突然押しかけてきたかと思うと、にこりともせずに左近の前で居住まいを正しているのは、親子ほども年の離れた若僧だった。
初め、左近はその誘いを歯牙にもかけなかった。
牢人しているとはいえ、生活に困窮しているわけではない。どころか、優れた軍略家として天下に名の知れた左近に、仕官を勧めにくる大名は引きも切らないのだ。
値踏みしている、というわけではないが、己が命を安売りする気もなかった。
「で、あんたはこの島左近を、どれほどの禄で召し抱えてくださろうとおっしゃるのかな。ちなみに俺は、一万五千石の禄を蹴って牢人してるんだ。それ以下じゃ、仕える気はありませんね」
左近の刺すような視線が、三成を射抜く。まだどこか少年の印象が残る端正な顔に、わずかに朱の色が差した。
「分かっている。――二万石出そう」
「二万石?」
思いもかけない答えに、左近は目を見張った。
この殿様は気でも狂っているのか。あるいは俺を試しているのか。それともただの酔狂か。
「二万石といえば、あんたの禄の半分だ。家来と主と同じ禄になるぜ?」
そんな話は、見たことも聞いたこともないね、と左近は舌打ちした。
「そんな高禄で、俺の戦の腕を買おうってのかい?」
斬り込むような左近の問いを、三成の双眸は静かに、しかしまっすぐに受け止めている。
「いや。私が買いたいのは、不義に怒り、高禄を蹴ったお主の志だ」
「ほう」
「同禄でもかまわぬさ。私が欲しいのは、同志なのだからな」
そう言って、三成は穏やかに微笑した。
その無垢な笑顔の清々しさ――。
左近は、目の覚めるような驚きをもって、眼前の年若い領主の顔を見つめた。
(今の世に、『義』だの『志』だのと本気で考えている人間がいようとはね)
仁徳や信義といった建前だけの殻を破って、欲望という人の本能が、最もストレートな形で噴出したのが戦国乱世である。
裏切りや下克上は当たり前のこと。強いもの、力のあるものが生き残るこの世界では、正義や大義など、しょせんは己の行為を正当化するための口実にすぎない。
そんな人の汚さを、嫌というほど見てきた左近である。結局のところ、利や欲でしか人は動かぬ、と思ってきた。
それがどうしたことか、三成の言葉に魅せられている。
「変わったお人だ」
「いつも、そう言われる」
倫理観や道徳観といったものが根底から覆された混沌の時代に、これほど純粋に世の不義を怒り、義を信じている人間が居ること自体、奇跡に近い。
「――殿、と呼ばせていただきましょう」
気がつけば、左近は、三成の前に両手をつき、頭を垂れていた。



(あの笑顔に、惚れちまったってことだ)
あの日、突として己の前に現れた石田三成という男の、輝くようなオーラをまとった立ち姿が、今もくっきりと脳裏に刻まれている。
そして、その笑顔は。
左近が今までに見た誰よりも、美しく透明な笑顔だった、と思う。
私利私欲といった邪(よこしま)なものを一切持たない三成の心根を、素直に映したものだったろう。
だが、普段の三成は、滅多なことでは笑わない。いつも仏頂面で、口を開けば皮肉に満ちた言葉しか出ない。そのことが、必要以上に世間の評判を悪くしている。
「まったく俺も、因果な主に仕えたものだ」
軽い気持ちで、愚痴のつもりで言ったのに。
だが、女はそれを『恋』だと看破した。

――この想いを『恋』と呼ぶのであれば、確かに俺は殿に恋をしているのかもしれぬ。

あまりにも現実離れした理想主義。崇高であればあるほど、世間一般には受け入れられ難い。
左近は三成の高潔さに魅了されると同時に、激しい不安を覚えずにはいられなかったのだ。
自分が傍らにいて盾となり、現実の嵐から守ってやらねば、殿の理想はたちまち自滅し、吹き飛ばされてしまう。


俺は、殿の笑顔を守りたい。
信義を貫くまっすぐなまなざしを。
凛として立つ、くじけぬことを許さぬ誇り高き魂を。


(だから、今、俺はここにいる。石田三成という良き主の下に)
その位置は、最後まで変わることはないだろう。
殿の理想が成就する日まで。
あるいは、死が二人を別つその時まで。



2008/9/14


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