いにしえ夢語り蜀錦の庭言の葉つづり



古 国




(三)


その夜。
宿の夜着にくるまりながら、男は何度も寝返りをうっていた。

蜀は雨の多い国だが、わけても夜に降ることが多い。
おだやかな雨音を聞きながら、男は昼間に会った青玉のことを思い出していた。

丞相・諸葛亮の妹でありながら、姫武将として活躍していたらしい彼の人。
たしかに、ずいぶんと負けん気は強そうだ。

「すっかり怒らせてしまったな・・・」

男は長い息をつき、また寝返りを打った。
青玉に負けず劣らず、感情的になった己を思い出すと頬が赤らむ。

彼女にあれほどまでに想われている姜伯約とは、はたしてどのような男だったのか。
蜀時代も文官であった己は、当然ながら姜維の人となりなどは知らない。
事績や残された言行の記録から、ただ、推察するのみだ。

知りたい。もっと知りたい。
末期の蜀漢を担い、そして国共々に滅んでいった姜維のことを。
それは史家としての情熱からか。あるいは肩を震わせていた青玉ゆえか。
己自身にも判断のつかない想いに駆り立てられながら、男は眠れぬ夜を過ごした。




明けた朝。

男は、成都の宮城へと出かけた。
あちこちが傷んではいるものの、そこかしこに残る当時の面影。
決して感傷的な質ではない男も、さすがにそっと目頭を押さえる。

中庭では、桃が満開を迎えていた。
先帝・劉備と、その義弟である関羽、張飛の三兄弟の故事にちなんで造られたという桃園。
男は枝を一つ折り、その足で青玉の屋敷へと向かった。




幸い、青玉は今朝も門前に立っていた。
またしても椿に手を伸ばし、枝を一つ折ろうとしているらしい。
男は昨日の無礼を謝罪しつつ、青玉に先ほど手折った桃を渡した。

「・・・桃? これってまさか、」
「はい。宮城の、中庭のものです」

男の言葉に、蒼くなった青玉がふっと体を揺らす。
男は慌てて、崩れ落ちる躯を抱きかかえた。




「青玉殿? いかがなさいました!?」

男の呼びかけに、青玉は幽かに微笑んでみせる。

「大丈夫。ただ、桃を見るのは五年前のお正月ぶりで・・・」
「・・・それは、」

五年前の正月と言えば、姜維が鍾会と叛乱を企てながらも殺された頃だ。
青玉の体を支えながら、男は歯噛みして言った

「・・・申し訳ありません。お辛いことを思い出させてしまいました」
「ううん・・・中庭の桃、満開みたいね。何だか不思議・・・」
「青玉殿、どうかそれ以上は、もう・・・」
「ふふ。春が来れば花が咲くのは当たり前のことなのにね。たとえ誰もいなくなっても、ちゃんと・・・」




いつしか、青玉は完全に気を失っていた。
その頬に残る涙を拭いながら、男はいつまでもか細く痩せた躯を抱きしめていた。









男は青玉を連れ、ふたたび宮城の桃園を訪れていた。
ちらちらと花片が舞う中、男と青玉は並んで座った。

「今日は伯約の話をする番ね・・・」

青玉の言葉に、男は小さく頷いた。

ここ数日というもの、男は青玉の家に通い詰めて彼女の知る蜀人達の話を聴いていた。
義に生き、義に殉じたという劉備、関羽、張飛の三兄弟の生きざまを。
命を削って先主の遺児に仕えた諸葛亮の思いを。
趙雲、馬超、黄忠、魏延ら、武将達の胸躍るような活躍を。
ホウ統や月英といった、智将らのめざましい働きを。

そしてこの日は、いよいよ姜維について語られる番だった。
身構える男に、青玉が幽かに微笑む。

「伯約と会って初めての春・・・やっぱりこんな満開の桃の下を、私たちは一緒に歩いたの。
私は慣れない晴れ着なんて着てたものだから、何度も転びそうになったけど・・・でも転ばなかった。
そのたびに、伯約が助けてくれたの。それに、ずっと私の手を引いてくれて・・・」

この日の青玉は、いつにも増して饒舌だった。
熱に浮かされるように。あるいは、夢を見ているかのように。
遠い目をしながら青玉は、姜維のことを語り続ける。

しかし、それでも終わりはやって来る。
やがて最期の段を迎えた青玉は、降りしきる桃の欠片に手を伸ばした。

「せめて、もう一度だけ会いたかった。どうしても会いたくて、公嗣様達と別れて広間へと向かったの」

男は、そっと目を閉じた。

「でも、少し遅かったの。伯約は静かに横たわっていた。綺麗だった顔も、髪も、血だらけのぼろぼろで・・・」




瞬間、一陣の強風が起こり、男はうめきながら目を開けた。
今しがたまで満開だった桃が、煽られ、次々と花びらを散らしていく。
そしてさらに風を受けて生き物の如く舞い上がった薄紅色の欠片が、まるで包み込むように青玉の周りを飛び交う。




男は、ただ、目の前の夢うつつを見つめていた。
青玉は花片に抱かれながら、いまだ幽かに微笑んでいた。




「・・・これで私の話は終わり。聞いてくれてありがとう」
「いえ・・・。私の方こそ、為になるお話をたくさん聴かせていただきました」

青玉は、にっこりと笑った。

「そういえば、私、あなたの名前も聞いてなかったね」
「え? 先生の書簡に、記してありませんでしたか?」
「ん? 全然、書いてなかったよ。允南殿も、肝心なところで抜けてるよねえ」

師への軽口に苦笑しつつ、男はあらためて青玉に礼を取った。

「私の名は陳寿、字を承祚と申します。どうぞお見知り置きを、青玉殿」
「うん。・・・いいお仕事をしてね、承祚」









洛陽への帰路についた男は、江を下りながらあらためて故郷の風景を見た。
四方を天然の要塞で囲まれた、温暖で豊かな蜀の大地。
劉備、関羽、張飛の三兄弟が、臥竜・諸葛亮が、大いなる夢を抱きながら立ったであろう天府の国。

その夢の残骸を抱きながら、姜維はひたすらに戦ったのだろう。
天命を覚りながらも、肯んぜず、抗い、人生を業火で焼き尽くして。




すでに亡き故国を想い、故人達に思いを馳せる。
男は、決して感傷的な質ではない。
しかし涙はあふれ、止まることがなかった。




2005年1月18日 たまよさん作成


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