いにしえ夢語り蜀錦の庭言の葉つづり



古 国




(二)


師であるショウ周に紹介された人物を訪ね、男は城下の街へと向かった。

目当ての屋敷の門前では、女が一人、椿の木に手を伸ばしていた。
花のついた一枝を取ろうとするものの、どうやら少し背丈が足りないようだ。

「・・・手伝いましょうか?」
「えっ?」

男が声をかけたところ、驚いたように女が振り向く。
瞬間、男も息を呑んだ。

この荒んだ旧都には、似つかわしくないような雰囲気の女人だった。
身なりこそ質素ではあるものの、顔かたちはどこか育ちの良さを感じさせる。
そして何より、心の奥までを見透かされそうなほどに深く澄んだ大きな瞳。
いつになく狼狽する男に、女は無邪気に笑って言った。

「ありがとう。あの枝が欲しいんだけど・・・手伝ってくれる?」
「承りました」

言われたとおりの枝を折り、男は女に渡した。
嬉しそうに受け取る女の笑顔に、男の緊張もほぐれ出す。

「失礼ですが・・・このお屋敷にお住まいの方ですか?」
「うん、そうだけど・・・あなた、誰? この辺りじゃ見ない顔ね」

男はショウ周より預かった書簡を出し、女に渡した。

「私の師に紹介されて参りました。この書簡を、こちらのご主人殿にお取り次ぎいただきたいのですが」

下女とは思えぬ佇まいといい、この女はおそらくは屋敷の主人の妻女か姉妹であろう。
男はそう考え、女に尋ね人への取り次ぎを願った。
しかし女は、その場で手ずから書簡をあらため出す。
その無行儀な振る舞いに、男は少し眉を寄せた。

「ふうん。あなた、允南殿のお弟子なんだ」

書簡を読み終えた女が、にっこりと笑う。
一方、男はいっそう深く眉を寄せた。
“允南”とは、まさしく師の字(あざな)である。
蜀の太学の主管であった彼の人を字で呼ぶとは、不作法なだけか、あるいは・・・。

「・・・失礼ですが、私はこちらのご主人に用事があるのです。まずはお取り次ぎを」

男は、威儀を正した。
すると女が、いかにもおかしそうに笑い出す。

「何か勘違いしてるみたいだけど・・・私がこの屋敷の主人よ」
「え?」
「もう、允南殿ったら。紹介してくれるのはいいけど、何も詳しい話はしてないみたいね」

怪訝そうな様子の男に、女は微笑みながら丁寧に礼を取った。

「はじめまして。諸葛亮の妹の青玉です。わざわざ訪ねてくださってありがとう」




屋敷の内へと案内されながらも、男は半信半疑でいた。
何故に諸葛亮の縁者が、このようなところで侘び住まいをしているのか。

出された白湯を口に含みながら、男は青玉を観察していた。
先ほど折ったばかりの椿を、素朴な花器へと活けて窓辺へと飾ろうとしている。
しかしその歩の具合には、どこかぎこちないところがあった。

「あ・・・気がついた?」
「え?」

不意に声をかけられ、男ははっとした。
女はにっこりと笑いながら、自らも白湯を入れた碗を持って男の前に座る。

「少しね、足が悪いの。ま、足だけじゃなくて、腕とかもいろいろ古傷はあるんだけど・・・」
「これは・・・失礼いたしました」

男は碗を置き、頭を下げた。
女人を不躾に見据えた己を恥じ、その頬に朱が走る。

しかし青玉は相変わらず、鷹揚な調子で男に話しかけてくる。

「頭を上げて。別に気にしてないから。・・・私ね、こう見えても蜀の武将だったのよ。名誉の負傷ってやつよ」

男は驚き、頭を上げた。

「武将? あなたが?」
「そ! 趙子龍の一番弟子でね。けっこう強かったんだから。でも、最後の戦でちょっと失敗しちゃって・・・」
「最後・・・?」

男の問いかけに、青玉はかすかに微笑んだ。

「うん。最後に・・・成都でね。ちょっと無茶しちゃって」

青玉の言葉に、男はぐっと拳を握りしめた。
蜀漢の都・成都での戦乱といえば、たった一つしかない。




蜀漢の滅亡時、大将軍としてその軍事を担っていたのは姜維だった。
彼は蜀の防衛の要所である剣閣に篭り、魏の鍾会の大攻勢を防いでいた。

しかしながらトウ艾率いる別軍が、危険を冒して緜竹に進路を取ったところで勝敗は決した。
蜀漢が最後の頼みの綱とした諸葛瞻、張遵らは敗死。
成都を戦場とすることを畏れた皇帝・劉禅は、早々に魏へと降伏した。

けれども姜維は、最期までそれを肯んずることがなかった。
勅使の命を受けて一度は矛を収めたものの、諦めきれない彼は一か八かの大博打を打った。
すなわち、野心を抱く鍾会を利用して魏の将兵らを陥れ、蜀漢を復興させようと企てたのだ。

しかし、計画は脆くも潰えた。
両者の計画を察知した魏将らが、逆に彼らを攻め滅ぼした。
平和裡に進められるはずであった降伏劇が、一転して血みどろの修羅場へと化す。

混乱する成都の街。
宮城では血と暴力に酔った将兵らが殺掠をくり返していたと、男は伝え聞いていた。
そして、そのような地獄さながらの光景の中に、目の前の青玉もいたと言う。
己の脳裡に浮かんだ絵図の惨たらしさに、男は唇を噛みしめた。

「あ、つまんない話をしちゃったかな・・・。えっと、本題に入りましょうか。あなた、兄さまについていろいろ知りたいんでしょ?」

一方の青玉は、明るい様子で話題を変えようと試みる。
しかし男は己の拳を見つめたままで、絞り出すように声を上げた。

「いったい丞相は・・・あなたの兄君は、何故あのような男に蜀の命運を託したのでしょう」
「え・・・?」

男の言葉に、青玉は小首を傾げた。

「あの男?」
「姜伯約のことです。何故に諸葛侯は、あのような危険な男をお引き立てになったのか?」




「・・・危険?」
「ええ」

男は拳を握りしめたまま、しかしはっきりと肯定した。

姜維はもともと魏の人であったところを、諸葛亮の肝煎りで蜀将となった男だ。
たしかに優秀な人物だったのだろう。
男が伝え聞く限りでも、その秀でた文武両道ぶりは窺える。

けれども、姜維には諸葛亮ほどの深慮が無かった。
彼は大将軍に就任後、諸葛亮の死で沙汰止みになっていた北伐を再開した。
しかしながら、相手は強大な曹魏である。
そうそう敵う相手ではなく、案の定、蜀軍は敗戦を重ねていく。

にもかかわらず、姜維は諦めようとはしなかった。
まるで何かにとり憑かれたように、ひたすらに彼は北を目指した。
度重なる戦に、国内はじわじわと疲弊していく。

男は、いつも思っていた。
真に姜維が諸葛亮の後継者として国を憂えるのであれば、軍事以上に政治について心を砕くべきであったのだ。
しかし彼は宮城内のできごとを省みず、ひたすら外ばかりに目を向けていた。
そして結果として宦官や佞臣らを跋扈させる隙をつくり、国はますます混沌とする。

その上、最期の破れかぶれのために成都はいらぬ混乱をし、失われずに済んだはずの多くの命が犠牲となった。
決して臆病だけを理由とせずに魏への降伏を説いた師の、そしてその意を取った後主の決断を、姜維は蔑ろにしたのだ。

史家を志す者として、男は極力、人物への好悪の情を持たないよう心がけてはいた。
しかし姜維だけは別だった。考えるほどに、どうしても彼にだけは嫌悪の感が募っていく。

「どうして? どうして伯約を危険だなんて言うの?」

戸惑った様子の青玉が、親しげに姜維の字を口にする。
男は、いつになく感情的になって声を高ぶらせた。

「そのようなこと、言わずと知れたことでしょう。無茶な北伐を繰り返し、政治をほとんど省みず・・・」
「・・・それは、」

青玉は、黙って目を伏せた。
そんな彼女のさまが、どこか男の神経を昂らせる。

「その上、彼は最期まであのような無茶をして・・・一歩間違えれば、後主のお命も危ないところだったことでしょう」
「・・・そういえば、公嗣様はお元気? 張紹や郤正、樊建、張通は・・・」

話題を変えるように、青玉が旧知の人々の消息を問う。
しかし男は答えずに、青玉を見据えて言った。

「お教えください、妹君! 丞相は何故、あのような男を・・・」
「止めて!」

男を遮るように、青玉は声を上げた。
その拍子に碗が倒れ、まだ熱の残る白湯が青玉の手にかかる。

「きゃっ・・・!」
「危ない!」

男はあわてて、青玉の手を取った。
湯で赤くなった華奢な甲には、無数の古い傷が残る。

「だ、大丈夫よ。そんなに熱いお湯じゃなかったし」

しかし男は眉を寄せたまま、じっと傷跡を見つめていた。
姜維の無謀は、はたして、これまでにどれだけの傷を青玉に与えてきたと言うのだろう。

「酷い男だ」
「え?」
「姜伯約は、稀にみる酷い男です。散々に国を疲弊させ、民を苦しめ、挙げ句の果てには宮城中を血の海にして混乱させ・・・」
「・・・止めてっ!」

男の手を振り払い、青玉は叫んだ。

「止めて・・・止めてよっ! それ以上伯約を悪く言うと許さないんだから!!」

痩せた肩を震わせながら、青玉が男を睨み付ける。
男は少し怯んだものの、同じく青玉を見据えて言った。

「確かに、私は姜伯約という人物を好きません。しかし私は悪し様なことは言っていない。すべては彼自身の実際の行いであって、」
「うるさいっ、うるさいっ、うるさいっ!」

青玉は腕を振り上げ、男を強く打った。

「あんたに伯約の何がわかるのっ・・・何がわかるのよっ! あんたなんて大っ嫌い!! 帰って! 帰ってよ!!」

そのまま崩れ落ちた青玉は、顔を伏せたまま躯を震わせた。
男は思わず手を伸ばしたが、途中で止め、またも拳を握りしめる。

「・・・失礼致しました」

男は静かに立ち上がり、青玉の屋敷を後にした。




2005年1月18日 たまよさん作成


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