いにしえ夢語り蜀錦の庭三国志を詠う


祈  り
―五丈原―

(詠み人 翠蓮さん/BGMも)




風よ

あの方の命の灯影を
無慈悲に吹き消し給うな

星よ

あの方の魂を
天の高みに呼び寄せ給うな

我らの足元に光を投げかける
唯一の輝石

我らの行く先を示す
貴き道標


今 あの方を失えば
五丈原は哀しみに満ち

空をも覆う嘆きに
誰もが打ちひしがれてしまう


まだ早すぎる
もうしばらく

その大いなる力にて
我らを導きたまえ、と

そう祈る側から
いつしか
わたしは迷い始める


たとえ自分が死しても
敵には隠して撤退せよと
あの方は凛と言い放つ

敵を倒す前に
自らが斃れた時

勝利の翼は
その肩を離れて行くことを
知りぬいているからこそ

最後の最期まで
きかぬ無理をも
押し通そうとなさるのだろう

命尽きてすら
我が軍の宿命を
背負い続けようとなさるのだろう


けれど

わたしには
見ていられない

もういいのだと

すべての重荷
すべての苦しみを
その肩から降ろしてくださいと

声を限りに
叫んでしまいそうになる

たとえそれが
卑怯なことだとしても
この身を盾にしてでも

わたしは
あなたを平穏な場所へと
逃がしたくなる


今にも
儚く消えてしまいそうな
やつれた横顔

なぜ
それほどにも己が命を
削ろうとなさるのです

せめて

静寂の星空のもと
何事にも煩わされず
眠らせて差し上げたい

息きれてもなお
駆け続けたその生涯の

最期のひとときを
ゆるやかに穏やかに
刻ませて差し上げたい

あなたにとって
時の流れはあまりにも
過酷だったはず


だが
あなたはおっしゃるのだろう

後悔などしていないと

思う存分
夢に向かって来たことを
誇りとして

今はこの上なく
満ち足りた気持ちなのだと


そして
静かなまなざしで
わたしに微笑まれるのだろう

おまえがいるから、と

先帝より
引き継がれし夢を
おまえに手渡せてよかった、と


叶えるには
あまりにも遠大な夢

あなたにさえ
ついには遂げられなかった夢を

わたし如きに
託そうとなさるのか

それは
なんと言う見果てぬ願い
無謀なほどの


いいえ
あなたはわかっておられるはず

この先進むべき路は
さらに険しく
夜明けの光すらさだかでない

一歩踏み違えば
わが国の命運は尽きる

それを背負うには
わたしはまだ
情けないほど力不足なのだと

どれほど
もどかしく切ない気持ちを
抱いておられることか


それでも

あなたは繰り返す
やさしく諭すように

お前に託す、と

お前に出会えて
よかった、と


わたしには

その手を取り
頷くことしかできない

胸ふさがるほど苦しくとも
あなたがそうおっしゃるなら

わたしも
何度でも頷こう

そして
いのちを懸けて誓うだろう

あなたの想いを
決して無にはしないと

これからの
わたしの熱情のすべてで

あなたから手渡された夢を
この胸に掲げ続けると


だから
天よ

あの方の心に食いこんだ
重い枷を
どうぞお外し下さい

今はただ
あの方のやすらぎだけが
わたしの望みなのに


ああ、なぜ

わたしが捧げる祈りは
こんなにも弱々しく
星々の合間に吸いこまれて行くのか

風さえも泣いているように
わたしの声をかき消して行くのか


どうか天よ

あの方を
お護り下さい

たぐいまれなる
高貴な魂を


やさしき御手に
お包みください

かけがえなき
我が丞相を……




◆◇「祈り」によせて◇◆

五丈原で、司馬懿率いる魏軍と対峙を続けながら、姜維はどんな思いで孔明を見つめていたのでしょう。
日に日に病の翳が濃くなってゆく大切なひと(孔明)を、ただ見守ることしかできない。やり場のない慟哭が、痛いほどこちらの胸にも伝わってきます。

いつまでも生き続けて、自分たちを導いてほしいと願う反面、少しも早くこの過酷な現実から逃れて、やすらぎの中に身を置かせてあげたいという、祈りにも似た思い。
翠蓮さんの詩「祈り」は、そんな揺れ惑う姜維の心を、余すことなく詠っています。


姜維が孔明とともに過ごしたのは、わずか6年余りにすぎません。けれどその6年間の交わりが、どれほど深く真摯なものであったか、その後の姜維の生きざまを見ればよく分かります。
人と人の結びつきは、本当に不思議なもの。
もともと魏の国に生まれ、魏に仕えていた姜維伯約が、運命的な縁(えにし)で諸葛孔明に降り、敵国であった蜀の人となる。この一事をとってさえドラマチックなのに、かれは、孔明亡き後の蜀をたった一人で支え続け、劉備から孔明へと受け継がれてきた「大いなる夢」を、最後の最後まで守り抜こうとしたのです。

孔明の遺志を守って戦う――それ以外の道が、姜維には見えなかったのでしょう。
かれには、孔明から託されたものの重さが分かっていたから。
星落つ秋風の五丈原で、今しも孔明の肉体を抜け出た魂魄が、己が身に宿ったかの如く思えたあの日から、姜維はただ「内なる孔明」のためだけに戦い続けるのでした。



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