―― 冬の蝶 <3> 問いに答えるかわりに、陸遜は尚香の肩にぐいと手をかけ、抱き寄せた。 「………!」 思いがけない成り行きに言葉を失い、青ざめている尚香の顔を、刺すような視線が貫く。男の目には、今までとは違う凶暴な色が滲んでいた。 「この者を死なせたくないのでしょう? それならば――」 そこで一呼吸おき、女の耳元に冷酷な声でささやいた。 「私の言うとおりにすることです」 一瞬、その華奢な五体をこわばらせた尚香だったが、陸遜の言葉の真意を悟ると、うつむいたまま、消え入りそうな声で答えた。 「本当に、関平さんを……助けてくれるのですね?」 血の気をなくした頬が、緊張におののいている。そんな尚香の様を、ねめつけるように見下ろしていた陸遜の心に、ふいに、どす黒い感情が湧き上がった。 「全く、あなたというひとは」 ――男をどこまでも残酷にさせるひとだ。 かつて、己が全身全霊をもって欲した女。そんな自分の思いを、歯牙にもかけようとしなかった高慢な女。 その女が、他の男のために、全てを投げ出そうとしている。 こんな、取るに足りない男のために。 (なぜ、この男なのです?) 怒りが、陸遜の視界を暗くした。自分でもどうしようもない衝動に、我を忘れた。 「愛する男の目の前で、犯してあげましょうか」 右手が、女の顔を捉える。乱暴に上を向かせ、震えている朱唇を、無慈悲にむさぼっていく。 「あ、やめ……」 身をよじって逃れようとした尚香の抵抗は、だが、すぐに小さくなった。 男の口吻は、唇から頬、耳たぶ、そして首筋へと、しだいに執拗さを増していった。 「尚香さま、いけません!」 関平の悲痛な声が、牢の石壁に響いた。 瞬間、尚香はぴくりと体を震わせたが、悲しげな眸子でちらと関平を見やると、黙って目を閉じた。 「あなたが、こんなにしおらしい方だったとはね」 無遠慮な言葉をあびせかけ、陸遜は、力なくうなだれる尚香の胸をはだけさせた。白い肌が、松明の灯りの中に、なまめかしく浮かび上がる。 「やめろっ! その方に手を出すなっ」 関平は絶叫しつつ、手負いの身を陸遜に突進したが、苦もなく弾き飛ばされてしまった。 「関平さん!」 「さすがに、愛する女が目の前で他の男に抱かれるという場面は、見るに忍びないですか」 陸遜は、壁に叩きつけられてうめいている関平を引きずり起こすと、手枷の鎖を壁に固定した。 「ですが、ここはどうでも、あなたに見ていただかなくてはね。誇り高き呉国の名花、孫家の弓腰姫が、あなたを救うために、なにもかもを投げ出そうというのですよ。その女心のけなげさに感謝するのですね。そして、その眼を見開いて、よく見ていなさい」 身の内に噴き上げる暗い欲望に突き動かされるまま、陸遜は尚香の身体を押し倒した。わざと関平の視線に触れるように、ゆっくりと下肢を押し開いていく。 「う……」 尚香は、唇を噛みしめて、目のくらむような屈辱に耐えた。 (関平さんの命が助かるなら、私はどうなってもかまわない――) 悲愴な覚悟だけが、今にも崩れそうな尚香の自我を支えている。それでも、関平の目に己が蹂躙される姿をさらすのは、耐えがたい苦痛だった。 彼女の意識が絶望の淵に沈もうとした、そのとき。 凛呼とした声が闇を破った。 「そのお方は、我が主君 劉備玄徳公の奥方だ。そのような不埒なまねは、この私が許さんぞ!」 「何?」 驚いて顔を上げた陸遜に、関平はさらに裂帛の舌鋒を浴びせた。 「陸遜。下卑た勘ぐりはやめよ! 私には尚香さまに対して一片のやましい思いもない。お主がどう思おうと勝手だが、主筋に当たるお方へのかかる理不尽な狼藉だけは、劉備さまの家臣として見過ごすわけにはいかぬ!」 虜囚の辱めを受け、身体の自由を奪われてなお、全身から発する闘気には微塵の濁りもない。 眼光は炯々として、まっすぐに相手を射抜いていく。その気迫の激しさに、陸遜は思わず後退った。 「………」 尚香の身体から一気に緊張が解けた。と同時に、食いしばった歯の間から嗚咽がもれ、堰を切ったように涙があふれ出てきた。 安堵ではない。怒りでもない。悲しみでさえない。 ただ、空しかった。 (主筋? 玄徳さまの妻だから? 家臣として? 本当にそれだけなの?) 関平の言葉が、胸に突き刺さる。冷たい床に身を横たえたまま、尚香はぼんやりと暗い天井を見つめていた。 ――私はいったい、何をしていたの? 愛する男を救おうとしたのは(相手も私を愛してくれていると思っていたのは)、私の思い上がりだったのか。 空白になった胸の底から、止めどなく涙ばかりが湧き上がってくる。頬にあふれる涙は、いつまでも止まらなかった。 一方、陸遜はというと。 水をさされて、すっかり気持ちが萎えてしまったのだろう。ひきつった笑いを浮かべながら、乱暴に尚香を牢から引きずり出した。 「ふはははっ。やめておきましょう。男にその気がないのなら、あなたを抱いても仕方がありません。もっといじめ甲斐がなくてはね――」 苦々しく吐き捨てると、人払いしてあった番兵を呼びつけた。 「尚香さまをあちらへお連れせよ。今後は私の許しなしに、誰もこの牢に近づけてはならぬぞ!」 兵士にうながされて尚香が立ち去り、陸遜も関平の視界から消えた。 再び、月明かりだけの闇の中に取り残された。壁に手枷を繋がれたまま。 だが、己のその様を、関平は少しもみじめだとは思っていない。尚香を、大切なひとを、陸遜の暴力から守ることができたのだから。 (尚香さま。あなたさまのお気持ち、決して忘れません。私に寄せてくださったあなたの思いも、そして私があなたに抱いた思いも、ともにこの心の底に大切に沈めて、あの世まで持っていきましょう) 月の光が陰ったかと思うと、石壁の隙間から雪が舞い込んできた。白く冷たい雪片は、まるで夏の夜の蛍のように、関平のまわりを飛び交う。 長江のほとりで、尚香と並んで見た蛍。 何時間も、ただ黙って、二人して眺めた空の色。 幸福な思い出の場面には、いつもそのひとの微笑みがあった。 ――荊州での日々、私もまた心の中では、主君玄徳さまを裏切っていたのです。 決して、触れてはならぬひと。 あの日、こらえきれずにその白い手に口づけてしまったことに、ずっと関平は罪の意識を抱いていたのだった。 これで、思い残すことなく旅立てます。 あなたが愛しい――。 わが生涯で、ただ一度の恋でした。尚香さま……。 それから間もなく、関羽と関平は臨沮で首を斬られた。 孫尚香は、亡き関羽と関平の菩提を弔って、その後三年余りを生きた。 やがて、蜀漢皇帝となった劉備が、義弟の弔い合戦を叫んで、七十万の大軍をもって攻め寄せてきた。 数の上では圧倒的に蜀軍が優勢であったが、呉の大都督 陸遜は、これを夷陵に迎え撃ち、火攻めによって大勝を収めたのである。 この敗戦が元で劉備は病床に伏し、ついに成都へ帰還することなく、白帝城でこの世を去った。二二三年夏四月のことだ。 長江の水は絶えることなく、時の流れもまたとどまることを知らない。 立ち止まり、振り返り、嘆息するのは、人がこの世の儚さを知っているからである。 そんな人の世の営みとはかかわりなく、水は流れ、雲は行く。今日も、明日も、遠い未来も――。 初夏の日差しが、きらきらと水面に反射し、水しぶきは小さな光の飛沫となって宙に踊る。 尚香は、ひとり長江のほとりに立ち、遠く西の空を眺めていた。 「この水が流れくる先に、関平さんが死んだ臨沮、そして玄徳さまの眠る白帝城があるのね」 美しい双眸に涙がわきあがり、やつれた頬をつたって落ちた。 (私は、誰を愛したのだろう。私の想いは迷子になったまま、季節はずれの蝶のように、今もこの空のどこかを漂っているのだわ) 次の瞬間、尚香は崖の上から身を躍らせた。色鮮やかな裳裾が、ひらと風に舞い、やがて水面に大きな波紋を立てながら落下していく。 その様は、のどかな花畑を舞う、目にも鮮やかな蝶の幻にも似て……。 「関平さん、今日も空がこんなにきれいよ――」 それが、最後の言葉であった。 ――了 ◆BACK ◆NEXT(あとがき) |