いにしえ夢語り蜀錦の庭言の葉つづり




―― 冬の蝶
<2>


すえたような臭いが鼻をつく。
地下牢の湿った土の上で、関平は目を開いた。
石積みの壁の隙間、わずかに開いた窓から差し込む月明かりに、今が夜だと知れる。
身を起こそうとして、激痛が走った。
「う……」
ようやく上半身を支え起こした腕の下で、手枷の鎖が鈍い音を立てた。
右肩と背中に深手を負っているらしい。傷口から流れた血が床に広がり、乾いて、黒い染みを作っていた。
(そうだ。父上……父上は?)
敵兵に囲まれた関羽を助けようとして、駆け寄ったところまでは覚えている。あっと思ったときは、馬が足を折っていた。鞍から投げ出されたところを、周囲から網を投げられて身動きが取れなくなり、絡めとられた。
そのまま縛り上げられてこの城砦に運ばれ、牢に放り込まれてから幾日たったのか。
(――父上はご無事だろうか?)
あれしきのことで、父が死ぬとは思えなかった。
無事に死地を脱したか。あるいは自分と同じように捕われて、別の場所に繋がれているのだろうか。
ぼんやりと視線を遊ばせていた先に、ふいにぼうっと灯りがさし、誰かが近づいてくる気配を察して、関平の五体は緊張した。

松明を手に、狭い石段を降りてくる人影がひとつ。
ようやく顔を見分けられる距離まで近づいたとき、思いもかけない人物の姿を見出して、関平は驚きの声をあげた。
「尚香さま――?」
眉宇をひそめ、今にも泣き出しそうな顔で立っているのは、かつて劉備の妻として荊州にあった呉国の姫、孫尚香だった。
十年ぶりであろうか。少女の幼さときかん気の強さは影を潜め、成熟した女性の顔がそこにあった。
「傷を負っているのですね?」
「ご心配には及びません。ほんの浅手です」
「だめよ。ちゃんと見せて」
尚香は、牢の鍵を開けると、すばやく中に滑り込んだ。
力なく壁にもたれかかっている関平に駆け寄り、着物を脱がせる。松明の灯りが、右肩の無残な傷を浮かび上がらせ、彼女は小さな悲鳴を上げた。
「ひどい怪我じゃないの!」
「本当に、大丈夫ですから」
「待っていて。すぐに薬を持ってきます。……怪我人をこんなところに放り込んで、手当てもせずに放っておくなんて、ひどい」
あわてて出て行こうとする尚香の裾に、関平がしがみついた。
「尚香さまっ。父上の、父上の消息をご存じありませんか」
「関羽将軍も、この城砦に捕われていると聞きましたが」
「では、父上はご無事なんですね?」
関羽が生きていると聞いて、関平の頬に生気が戻った。その様子を見ていた尚香は、関平の方に向き直ると、声音を改めた。
「でも、このままでは、いずれあなたもお父上も殺されます」
「覚悟の上です」
「いいえ!――関平さん。私は、あなたにも、関羽将軍にも、こんなところで死んでほしくないのです」
なぜ、敵国の姫がこんなにも必死になって自分の身を案じてくれるのか。関平には分からなかった。
「私は……ここで、父上とともに死ねるのであれば、天に感謝したいと思っているのです。本当に、ようやっと……名実ともに関羽の息子として死ねるのですから」
「関羽将軍は、それでご満足でしょう。玄徳さまに託された荊州とともに滅びるのであれば。でも、あなたは――」
尚香の双眸に涙があふれた。
「あなたには、もっと違う未来があったはず。このようなところで、こんな形で終わるのではなく……」
「尚香さま」
「あの日、私に話してくれたではありませんか。世の中が平和になったら、と。いつか、もし……と」
いつしか尚香は、関平の胸にすがり、声にならない鳴咽をもらしていた。

――私は最初から同盟のための「贄」。
けれど、道具に過ぎないこの身にも、どうしようもなく心はあるのです。
たとえあなたに分かってもらえなくても、自分の心に嘘はつけないわ。

十年間、ずっと胸の底に押し隠してきた思慕。それは、決して口に出すことは許されない情熱。今、熱い思いは涙となってほとばしり、愛しい男の胸を濡らしていくのだった。

                  

そのとき、牢の前にぬっと立った人影がある。
「これは尚香さま。めずらしいところでお目にかかりますね」
松明を手にかざし、じっと二人を見つめているのは、呉軍の都督であり、此度の戦の総指揮を執っている陸遜だった。
「孫家の姫君が、地下牢に入る趣味をお持ちとは」
言いながら、陸遜は尚香の体を押しのけるようにして牢の中に入ってきた。
「陸都督。関平どのは敗れたりとはいえ、関羽将軍の子息、劉備軍の将ですよ。それを傷の手当てもせず、このようなところに押し込めておくとは、無礼であろう」
尚香の抗議を、陸遜は薄笑いを浮かべて聞いていた。冷淡な視線が、関平と尚香をなめるように見つめてくる。
「私は、主公より全権を委任されております。敗残の虜囚をどうしようと、姫にとやかく言われるすじあいはありません」
「兄上は、関羽さまを殺すなと、味方になるよう説得せよと命じられたはずです」
尚香の凛とした視線を、まっすぐに受け止めていた陸遜は、突然、甲高い笑い声をあげた。
「怒りに我を忘れたあなたも、美しい――」
「………」
陸遜は、肉の薄い頬に酷薄そうな笑みを浮かべた。
「あなたというひとは、残酷なお方だ」
壁際で身を寄せ合っている二人に、ゆっくりと近づく。次の瞬間、関平の顔に陸遜の平手がとんだ。
「何をするのです!」
「尚香さま。あなたは、この陸伯言の気持ちを少しも分かっては……いや、分かろうともしてくださらなかった。あなたが劉備に嫁ぐという話を、私がどんな思いで聞いたかご存じか」
「陸遜……?」
「やがて、荊州からあなたが帰国されたとき、私は何をおいても、あなたを妻に迎えたいと主公に申し出たのです。今度こそ、あなたを我が許に迎えられると、私は信じて疑いませんでしたよ」
――だが、と陸遜は嘆息した。
「私の願いはまたも打ち砕かれました。荊州から戻られたあなたは、誰にも嫁がぬ、二度と夫は持たぬと、固い決意でおられると。……それほど、劉備を慕っておいでなのか。それならば、致し方あるまいと、私は無理やり自分自身を納得させ、あなたへの思いをあきらめようとしたのです。ところが――」
陸遜は、尚香を立たせると、関平が倒れ込んでいるのと反対側の壁際へと押しやった。
「貞淑な妻の顔をして、とんだ食わせ者だったのですね。劉備への操を立てるふりをしながら、こんな若僧をちゃっかり咥え込んでいらっしゃったとは」
「やめろ! それ以上尚香さまを侮辱するな!」
関平が頭をもたげ、怒りに燃えた眼で叫んだ。
「私と尚香さまは主と部下だ。それ以外の何もない」
「ほう。それは結構。だが、尚香さまの方はどうですかな?」
陸遜は相変わらず感情のない薄笑いを浮かべながら、尚香に向き直った。
「陸……」
「左様。この者の生殺与奪、今は私の掌の中にあります。これがどういう意味か分かりますか。あなたにその気さえあれば、この者の命を助けることもできるのですよ」
壁際に追い詰められた尚香に、陸遜がずいと肉薄する。 尚香の目に、怯えが走った。
「何が、言いたいの?」



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