平助くんと私の六十日間 |
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今まで同じ場所に立っていた平助くんが、急に遠い世界の人になったような気がして――。 私は言葉もなく、うなだれるしかなかった。 そんな私を、平助くんは、ただ黙ってじっと抱き締めていてくれた。 (あなたの腕も胸も、こんなに温かいのに。どうして、あなたはこの世界の人じゃないの? 世界で一番素敵な笑顔なのに、もう、私のために笑ってくれないの?) 温かい抱擁も、優しい微笑みも、今はただ切ないだけ。 どれくらいの時間、そうやって彼の腕の中で涙をこらえていただろう。 「花梨。ほんとにごめんな」 目を上げると、驚くほど近くに平助くんの眸子があった。 その色がとても儚くて優しくて、私はまた泣いてしまう。 「俺さ、お前を幸せにしてやりたい、って本気で思ってたんだ。絶対、花梨のこと泣かせたくなかったのに、堪忍――」 これ以上、この人を困らせちゃいけない。 だって。平助くんは、もう決めたんだもの。 彼の決意は、決して翻らない。平助くんにとって、私なんかより、自分の命よりも、もっと大切なものがあるのだ。 なんとか涙をぬぐった私の口から出たのは、自分でも思いがけない言葉だった。 「平助くん、どうしたら元の世界に戻れるの?」 彼を、幕末のあの夜に帰したいわけじゃない。できることなら、いつまでも彼と一緒にいたいという気持ちに、今も変わりはないけれど。 それでも。 平助くんがそれを望むのなら……。 何とかして彼の望みを叶えてあげたいと思うのだ。 平助くんは、私の疑問に、慎重に考えながら答えてくれた。 「あの時、俺の迷いが、お前の心に呼び寄せられたのかもしれない。だとしたら、迷いを断ち切った強い心で願えば、きっとあの場所に戻れると思うんだ」 驚いたことに、平助くんの考えは、以前、麻美に言われたこととまったく同じだった。 「前にね、友だちに言われたことがあるの。平助くんと私の波長が、何かのきっかけでシンクロしたんだろうって。だから――」 きちんと話さなきゃ、と思えば思うほど、言葉が詰まって涙があふれそうになる。 「だからね、平助くんが帰りたいと願うのはもちろんだけど、私自身も平助くんを帰してあげたい、って強く思わなきゃいけないんじゃないかって」 すがるような思いで彼を見る。 平助くんは、いつもと変わらない笑顔でうなずくと、私の肩をそっと両手で包んだ。 「そうかぁ。じゃあ花梨は、俺が帰れるように、って願ってくれるのか?」 「うん」 言いながら、思わず目を伏せてしまう自分の弱さが悲しい。 (だめだ、こんな弱い気持ちじゃ。もっと強くならなきゃ。あなたを後押しして、時間も空間も飛び越えられるくらいのパワーを出さなきゃいけないんだもの) もう一度、顔を上げる。ちょっと無理して、唇の端を上げてみる。 ――私、うまく笑えてるかな。 ぎこちなくてもいい、精一杯の思いを込めて、平助くんの笑顔にきちんと応えたい。 彼が出した答えに精いっぱいの力を添えてあげたい。 それからしばらく、私たちはとりとめない会話をかわした。隣の部屋にアメリカ人の女の子が越してきたこととか、アルバイト先でお客さんが倒れて救急車が来たこととか。 私って、馬鹿だ。もっと話したいことは他にあるのに、なぜこんな他愛のない世間話しか出てこないんだろう。 ふと、平助くんが真顔になった。 「俺さ、もしかしてこのふた月は、神様が俺のことを哀れんで与えてくれた時間なのかも、って思うんだ」 「平助くん……」 「きちんと自分の人生にけじめをつけるために、覚悟を決めるために、俺が俺自身と向き合うために。そのために、花梨と過ごす時間を与えてもらったんだとしたら……。これって、神様から俺へのご褒美なんじゃねえ?」 私と過ごした六十日は、平助くんが、藤堂平助という一人の武士としての生き様を全うするために必要な時間だったの? そのために、私が選ばれたの? だけど、そんなご褒美なんて残酷すぎるよ、神様――。 二人で過ごす最後の時間は、あっという間に過ぎていった。 夜になって、頭の上で空間が軋むような感覚が、ますます強くなったような気がする。きっと平助くんも、同じように感じているだろう。 軽く食事をとった後、ユニクロの服を脱いだ平助くんは、彼がこの部屋に落ちてきたときに着ていた着物に着替えた。 「お、きれいに洗ってくれたんだな。サンキュ」 見る見るうちに幕末の人に戻っていく彼の姿を、私は黙って見守った。 きっと、今なら帰れる。二人して心から願えば、平助くんはきっと時空を超えることができる。 そして私は……。 ――笑って見送らなくちゃいけないんだよね。 できるのかな。自信なんてないけど。 何もしていないと泣いてしまいそうで怖い。 「平助くん。髪、結ってあげるね」 私は、座っている彼の後ろに回り、肩の辺りで髪を束ねている白い飾り紐をほどいた。長くてきれいな髪が、はらりと背中に広がる。 (やっぱり、切らなくてよかった) 今の日本では長髪が一般的ではないと知った平助くんが、髪を切ろうかと提案したとき、私は断固反対した。もし、彼が元いた幕末の時代に帰ることになったら、髪が短いと困るだろうと思ったからだ。 もちろん、そんな日が現実に来るなんて思いたくはなかったけれど……。 平助くんの髪を結いながら、そんなことを思い出して苦笑する。 櫛で整えてから、元結でしっかり髷を括り、次に飾り紐を結ぼうとして、私は手を止めた。 (そうだ、この前、母さんが送ってくれた組紐があったっけ) それは、母が習っている組紐教室で作ったものだという。米や野菜と一緒の宅急便で送られてきた深緑色の組紐には、「平助さんに使ってもらって」という手紙が添えられていた。 「平助くん。お願いがあるんだけど」 私が遠慮がちに切り出すと、平助くんは、何? という顔でこちらを振り向いた。 「私ね、平助くんが確かにここにいたっていう証になるものがほしいんだ」 「証? ……つっても、俺、花梨にやれるようなもの、何にも持ってねえし」 こんなに困った表情の平助くんを見るのは久しぶりだ。私はあわてて首を振る。 「あ、違うの。そんな大層なものじゃなくて」 おずおずと、彼が使っていた白い飾り紐を差し出す。 「これを、私にくれないかな」 「え、これ? ああ、いいけど。そんなもんでいいのか?」 「うん」 目を丸くしている彼に、「ありがとう」とうなずいて、私は飾り紐を両手に握りしめた。 「その代わりに、この紐で髪を結わせて。これ、実家の母が組紐教室で作ったものなんだって。この前、平助くんに使ってもらって、って宅急便で送ってきたの。今まで渡す機会がなくて」 「へえ。そうか。おふくろさんの手作りかぁ」 濃い緑色が、平助くんのちょっと茶色がかった髪によく似合う。 故郷の父や母のことを思うと、また心が揺れた。 楽しかった里帰り。たくさんの思い出。心がふれあった瞬間。 平助くんと、ほんとの家族になりたかった。 「花梨。おやじさんとおふくろさんに、俺のことうまく話しといてくれよな。きちんと謝れなくて、ごめんな」 やがて「その時」が訪れた。 部屋の天井がゆがみ、時間のひずみが空気を震わせる。理屈なんて分からないけど、今がその時なんだと私も平助くんも感じていた。 「花梨、ありがとう」 おもむろに立ち上がり、「長い間、世話になったな」と私の手を握ってくれた彼の掌は、とても温かかった。 着物を着て、腰に刀をさした平助くんは、うんと大人びて見える。 「平助くん、死なないで――」 何を馬鹿なことを言っているんだろう、私は。彼は、死ぬために元の世界へ戻るというのに。 遠くを見ていた彼が、ふっと笑った――。 そう思った瞬間、平助くんの周りをまぶしい閃光が取り巻いた。 明滅する光の中で、彼の声が聞こえた。 「花梨。お前のこと、忘れないよ……」 あたりが元の明るさにもどったとき、愛しい人の姿は、どこにもなかった。 ◆◇◆ 「………く、うっ」 藤堂平助は、突然激しいめまいを覚えて、路傍にしゃがみ込んだ。 (あれ? ここは……? 本当に、戻ってきたのか――?) 頭を上げて見渡せば、見慣れた京の町並みだ。 そう思ったとたん、違う世界で過ごした二か月間の記憶が、一瞬のうちに脳幹にあふれた。かつて経験したことのない異様な感覚に戸惑いながらも、藤堂は、自分の身に起きた不可思議な奇跡を、事実として受け止めていた。 (花梨……。お前のおかげで、無事に元の世界に帰ってくることができたみてえだ) 異次元で出会った少女の、最後に見た寂しげな笑顔が、若者の胸を疼かせる。 ――ありがとな。お前の気持ち、決して無駄にはしないから。俺の死に様を、しっかり見ててくれ! 「藤堂くん、大丈夫か?」 後ろにいた服部武雄があわてて駆け寄り、藤堂の体を助け起こした。 「ああ、すみません。ちょっとめまいがしたもので。もう、大丈夫です」 「そうか。ならいいが。急ぐぞ」 「はいっ!」 慶応3年11月18日、深夜。 五条大路を油小路へ向かって疾駆する男たちの中に、藤堂はいた。 これから我が身に起きることを知りつつ、彼は走る。 その夜、新選組に暗殺され、路上に放置された盟主 伊東甲子太郎の遺骸を引き取るべく、七条油小路の辻に駆けつけた御陵衛士7人は、待ち伏せていた数十人の新選組隊士と激しい戦闘を繰り広げる。 7人のうち、4人は囲みを破って脱出したが、藤堂平助、服部武雄、毛内監物の3人は、最後までその場を退かず、斬殺された。 特に藤堂は、試衛館以来の仲間である原田左之助らがわざと逃がそうとしたにもかかわらず、一歩も引かなかったという。藤堂は、友の情誼に感謝しつつ、敵の只中に飛び込んでいき、斬られた。 「魁先生」の異名のとおりの、見事な最期だった。 冷たい骸となった藤堂に、そっと手を合わせていた原田が、遺体の傍に落ちていたものを拾い上げた。 「あれ、平助のやつ、こんなしゃれた飾り紐、持ってたか?」 「さあ。馴染みの女にでももらったんじゃねえのか」 元結が切れ、長い髪が乱れて散っている。 その茶色がかった髪によく似合う、深い緑色の飾り紐だった。 |
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<エピローグ に続く> |
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