いにしえ夢語り浅葱色の庭言の葉しずく



平助くんと私の六十日間


[3]

夜の静寂を破って、平助くんの下駄の音が響く――。
深夜の京都の街を、私と平助くんは、ほとんど駆け足に近いスピードで歩き続けた。


マンションから油小路までの道のりを、私はなるべく繁華な場所から離れた、人や車の往来の少ないルートを選んだつもりだった。
それでも、一歩進むごとに、平助くんはかなりのカルチャーショックを受けていたようだ。
まったく知らない世界へ、有無を言わさず放り出された彼にとっては、見るもの聞くもの、すべてが想像もできないものばかりなのだから、無理もないけれど。
やがて、私たちは七条油小路の交差点にたどり着いた。
西本願寺に近いこのあたりは、夜になるとほとんど人通りもなくなってしまう。
「ここ?」
「うん。この交差点をもう少し南に下ったあたりだと思うよ」
平助くんは、道端に立ってきょろきょろと周りを見回している。
今では、何の変哲もない交差点だが、平助くんが生きていた当時とは、まったく様子が変わっているのだろう。
「そっちが西本願寺だろ? やけに道が広くなってて……よく分かんねえや」
実は、ここから少し南に行ったところに本光寺という寺院があって、その門前に「伊東甲子太郎がここで息を引き取った」と書かれた説明板が立っている。
そして、その伊東の死体を囮にして、新選組が御陵衛士と死闘を繰り広げたのが、ちょうどこのあたり。そう、140年前のあの夜、平助くんが斬られて死んだのも、この場所なのだ。
藤堂平助フリークの私は、もう何度も何度も、それこそ数え切れないくらいここには足を運んでいたから、よく知っていた。
だけど、そのことを、私はどうしても言えなかった。
「ね、平助くん。これで分かったでしょ」
「ん……」
「ここは、平助くんが向かおうとしていた油小路じゃないんだよ。場所は同じだけど、立っている時間が違うんだよ」
「ああ、そうみたいだな」
「だから――」
まだ、不安げに視線を遊ばせている平助くんに向かって、
「この世界には、伊東先生も、御陵衛士の仲間も、新選組の人たちもいないってことなの」
わざと斬り捨てるように言った私の言葉に、平助くんは、さすがに厳しい表情で黙り込んでしまった。
ようやく、自分の置かれている状況が、おぼろげながらも分かってきたのだろう。目の前の華奢な肩が、小さく震えている。
「俺が迷っていたから……なのかな」
「え?」
唐突に絞り出された言葉の意味が分からなくて、私はじっと平助くんを見つめた。
「あの夜、俺は油小路への道を走りながら、それでもまだ迷っていたんだ。本当に、これでいいのか。俺の行く道はこれで正しいのか。あの日の選択を後悔してないのか、って」
「平助くん……」


再び夜の街を歩いて、私のマンションへと帰る道すがら、彼は、苦しそうにひとつひとつ言葉を選び、迷いつつ話してくれた。
試衛館での楽しかった日々。新選組として生きる中で芽生えた疑問。山南敬助や伊東甲子太郎ら同じ北辰一刀流の仲間たちと、近藤勇、土方歳三といった試衛館派との軋轢が深まる中で、自分はどうしたいのか、どう生きるべきなのかという葛藤に苛まれたこと……などなど。
そして、あの夜。
伊東甲子太郎横死の急報を受け、油小路へと向かう途中、突然雷のようなものに打たれて気が遠くなり、気づいたら私のベットの上だった、というのだ。
「きっと、あの期に及んでまだ覚悟を決められない俺自身の弱さが、俺をこの世界に吹っ飛ばしたんだな」
前を歩く平助くんの背中が小さく見える。
その背中に駆け寄った私は、ちょっとためらい、それから思いきって彼の肩にそっと手を預けた。
「もう、いいじゃない」
「………」
「難しいことは明日考えれば。今は、考えてもどうにもならないんだし」
理由(わけ)もなく切なくて、目蓋が熱くなる。
(別の次元に飛ばされてなお、辛い葛藤を抱えて、一人で悶々とする平助くんの姿を、私、もうこれ以上見ていられないよ)
こらえていた涙があふれて、かれの背中に落ちた。
「やだ。私……。どうして涙なんか――」
肩越しに、緑がかった眸子が私の方を振り返り、平助くんの手が、私の手に重なった。温かい手のひらを通して、かれの優しさが静かに沁みてくる。
「花梨。ありがとな」


そのときだ。
突然、数台のオートバイが現れたかと思うと、けたたましい騒音を撒き散らしながら私たちが立っている場所に近づいてきた。
逃げ出す間もなく、私たちはオートバイの群れに囲まれてしまった。
「何よ、あんたたち!」
こんなところで、平助くんをトラブルに巻き込ませたくない。勢い、私が前に出ることになる。
「ようよう、ねえちゃん。見せ付けてくれるやんけ」
「お子様の時間は、もう終わりやで」
見るからに柄の悪そうな奴らが、ニヤニヤ笑いながら私たちを見ている。
「どういう意味よ?」
「だからさあ、そんなちっちぇえお子様はほっといてよぉ」
「これからは大人の時間……てことで。お嬢さん、よかったら俺たちと遊ばねえ?」
「きゃあっ!」
髭面の大男が、私の腕を絡め取ろうと手を伸ばしたそのとき。
「痛てててっ!」
私が身を翻すより早く、男が悲鳴を上げた。いったい、何が起こったの?
「てめえ、何を……!」
驚いて振り返ると、平助くんが大男の右手をねじ上げている。
「こいつ! やろうってのか!」
残りの男たちが、一斉に牙をむいた。全部で五人。怒気を漲らせて平助くんを取り囲む。
だが、そんな危ない連中の殺気を四方から浴びながら、平助くんは涼しい顔だ。
「怪我したくなかったら、やめとけ」
「なにぃ!」
不敵な笑みを浮かべて立っているその姿は、さっきまでの頼りなげな平助くんとはまるで別人だ。全身から発するオーラのようなものを肌に感じて、私は背筋がぞくぞく震えるのを覚えた。
「えらそうにほざいてんじゃねえよ、このオカマ野郎」
「女みたいな頭しやがって」
「ふーん。誰が女みたいな、だって?」
これが、実際に修羅場をくぐってきた人だけが持つ迫力なのだろう。凄みのある眼光に射すくめられ、さすがの不良たちも顔を引きつらせた。
「もうこの辺で、やめとけよ」
「やかましい!」
喚きながら、一人の男がポケットからナイフを取り出す。
それを合図に、不良たちは一斉に平助くんに襲いかかった。

――どうしよう……?

いくら平助くんが剣術の達人でも、今は丸腰だ。相手は五人。しかもナイフを持っている。
平助くんが簡単にやられるなんて思わなかったけれど、万一怪我でもしたらと思うと、居ても立ってもいられない。
(何か……何かない? 刀の代わりになるようなもの……)
必死にあたりを見回していた私の目に、道端に放り出されたモップが映った。
(あ、あれだ!)
素早くモップを拾い上げた私は、大声で叫んでいた。
「平助くん、これ使って!」
「おおっ!」
私が投げたモップを、平助くんは見事にキャッチした。


それからは、平助くんの一人舞台だった。
あっという間に、ナイフを持った男を叩き伏せ、返すモップで(!)もう一人を塀まで弾き飛ばすと、不良たちは蜘蛛の子を散らすみたいに逃げてしまった。
「平助くん、大丈夫っ? 怪我はない?」
「へへ……。おもしれえ」
「………?」
「こっちの世界にも、けっこうあぶねえ奴らがいるんだな。上等じゃん」
駆け寄った私に、平助くんは楽しそうに笑ってみせた。殺気の抜けたその顔は、私の知っている彼に戻っている。
「もう、平助くんたら。心配させて――」
ほっとしたら急に力が抜けて、私はその場にへたり込んでしまった。
「お、おい、花梨。どうしたんだよ」
実は、マンションを出るとき、どうしても刀を持って出ると言ってきかなかった平助くんから、むりやり大小を取り上げたのは私なのだ。もちろん、そんなもの持って歩いているところをお巡りさんに見つかりでもしたら、銃刀法違反で捕まってしまう。だから、絶対ダメだと押し切ってしまったのだが、平助くんにもしものことがあったら、それこそ悔やんでも悔やみきれないところだった。
「お前の方こそ大丈夫か?」
「うん」
ごめんね、と立ち上がろうとした私に、平助くんは優しく手を差し伸べてくれた。
「さっきは助かったぜ、これ」
その右手に握られているものを見て、私は思わず声を上げて笑ってしまった。
「あ、モップ……!」
「ちょっと長すぎだけどな」
平助くんもからからと笑う。
「さっきの平助くん、すごくかっこよかったよ」
「え?」
「やっぱり迫力が違うもん。モップを持った平助くん、とっても大きく見えた」
「そ、そうかあ……」
頭をがしがしと掻きながら、ちょっぴり照れている彼がかわいい。


いろんなことがあったけれど、私たちは何とか無事にマンションの前まで帰りついた。そこで、平助くんの足がぴたりと止まってしまった。
「けどなあ。俺、これからどうすれば――」
目の前のマンションを見上げて、彼は相変わらず途方に暮れている。
そんな彼の手を、私は無意識のうちに握り締めていた。
「ここにいていいよ。ずっと、平助くんがいたいだけいればいいよ。ちょっと狭いけど、なんとかなるし」
なかなかうんとは言ってくれなかったけど、平助くんもどうしていいのか分からなかったんだろう。結局、私たちは一緒に住むことになった。
12月13日(もう、このときは14日だったけど)。
こうしてその夜が、私にとって、一生忘れられない大切な記念日になった。



<4 に続く>

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