いにしえ夢語り千華繚乱の庭繚乱エッセー>本



 チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷
塩野七生著



書店で本を選ぶとき、内容はもちろんだが、ちょっとした装丁や帯に書かれたキャッチ・コピーに惹かれて、つい手に取ってしまう、というのはよくあることだ。
さらに、本のタイトルにどうしようもなく惹きつけられる、ということもある。
塩野七生さんのこの「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」は、まさにタイトルに惹かれて読んだ一冊だといえるだろう。
初めてこの本を手に取ったのは、まだ10代の頃だったと思う。
私は当時、チェーザレについてほとんど知識を持っていなかった。ただ、「優雅なる冷酷」と形容されるのは、いったいどのような男性なのだろうかと、タイトルだけですでに、まだ見ぬイタリアの貴公子に魅了されていたのである。
読み進めながら、最初はとても不思議な感じがした。
歴史書でも伝記でもなく、まして小説でもない。書き手がことさらに登場人物に感情移入することもなく、主人公自身に内面を語らせるわけでもなく、ただ淡々と事実のみが綴られていく。
それは作者である塩野さんの独特のスタイルなのだが、その頃の自分には、とてもドライで新鮮に感じられたものだった。極限までそぎ落とした硬質な文章は、無駄な会話などないだけに、よりいっそう軽やかな疾走感を伴って、読む者の心にすとんと落ちてくるのだ。
なによりも、行動する男、チェーザレがかっこいい!
余計な先入観を持っていなかっただけに、塩野さんの描くチェーザレのかっこよさが、そのままストレートに胸の奥に届いてくる感じだった。

そして最近になって、再び「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」を読み返す機会を得た。先日ようやく読み終えて、以前とはまた違った新たな感動を覚えている。
やはり、感情を交えずに、主人公の行動だけを追いかける淡々とした描写は、ときに淡白すぎる印象を与える。まして、「めったにしゃべらない」チェーザレは、独白によってその内面を垣間見せることもない。
けれど、そこに浮かび上がった男の横顔は、確かに塩野さんのフィルターをかけられることで、より鮮烈で魅力的なものとなって、私たちに迫ってくるのだ。
巷間伝えられるような、陰謀と暗殺に明け暮れた殺人鬼、といったゆがめられたチェーザレ像は見事に払拭され、ここではチェーザレは、並外れた才能と機知でおのれの運命を切り開いていく革命児として描かれる。そしておそらくは、それがかれの真実により近い姿なのだろうと思う。
だが、歴史の極地に位置する者に、悲劇的な最後は「お約束」でもある。
すべては運命なのだろうか。チェーザレほどの男をもってしても、歴史の非情な流れには逆らえないのか。
もし、彼が父である法王とともに病に倒れさえしなければ……。イタリアの、いやヨーロッパの歴史は変わっていたにちがいない。
流星のように駆け抜けたチェーザレの生涯を、最後の瞬間まで淡々と見つめ続ける塩野さんのまなざしに、熱い情熱を感じて嫉妬してしまうのは、私だけではないだろう。
「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」。
魅力的なのは、決してタイトルだけではない。

(06/1/20 ブログより再録)


BACK