いにしえ夢語り蜀錦の庭三国志を詠う


別  涙

―白帝城―

(詠み人 翠蓮さん/BGMも)



もう
どれほど昔になるのでしょう

あなたに
初めてお会いしたのは

まだ自分の望むものを
何ひとつ持たない

ただ田畑を耕すだけの
毎日を送っていたわたしに

あなたは
深々と頭をお下げになった

乱世を終わらせるために
民に平穏な生活を与えるために

力を貸してくれと
ひたむきなまなざしで
切々と訴えなさった

わたしは

それまでずっと
迷っておりました

この国の
ただひとりの王たる方が
果たして誰なのかと

その方が自分ごときを
いったいどれくらい
用いて下さるのかと

書を読み 論を交わし
学び続けたことすら

経験を持たぬ者の
青臭い理想だと
笑われることも覚悟しておりました

でもあなたは
わたしの話す策を
真剣に聞いて下さった

共に
正しい夢のために戦おうと
この手を取って下さった

宿命とは
天が定めるものではない

自らの熱い想いによって
決まるものなのだと

わたしは初めて
決意を持って歩き出すことの
心地よい誇りを知ったのです

あれから

なんと数え切れないほどの
戦いを 苦難を
あなたと一緒に
乗り越えたことでしょう

どんな時も
あなたの厚い信頼に
守られていたからこそ

わたしは
あきらめずに駆け続けてきた

あなたのための玉座を
この手で整え
あなたを迎えることこそ

新たな夢への
一歩だと思っていた

貴重なる犠牲を
どれほどか払った末

三つの国のひとつに
あなたの名が輝いた時

胸の奥からこみ上げる歓びに
わたしはひとり
涙を流しました

これからだと

ようやく
夢の入り口に辿りついたと

それなのに

運命はまだわたしたちに
つらい試練を与え続けた

その玉座を暖めるひまもなく
無謀な戦いに臨まれるあなたを
引き止める手だても持たず

破滅を食い止めるための
策を講ずることもできず

今 まさに消えんとする
命の灯のゆらめきに
耐えておられるあなたを
救って差し上げることもできない

この身は
まるででくのぼうのように
あなたを失う悲しみに固まり

絶望の地の底まで
くず折れてしまいそうなのです

なんと情けない
無力な
弱いわたしであることか

あなたという柱なくして
この国は成り立たない

あなたという光なくして
わたしに
城を築く意味などないのです

それでもまだ

わたしにこれからも駆けよと
おっしゃいますか

わたしを見守り続けて下された
おおどかなまなざしのまま

後を頼むと
おっしゃられるのですか

あなたから託された夢
あなたから託された国

そして
あなたから託された
あなたの大切なお子

ああ……

そうです
わたしは
嘆きに沈むわけにはいかない

それが
あなたが最期に願ったことならば
わたしは
何としても叶えねばなりません

あの日
あなたに示された道

わたしが心ふるわせ
共に歩き出した道は

この先も険しく
そして果てしない

これからはただひとり
手探りで辿る道

たとえ
どんなに非力でも

わたしにできることは
ひたすら前を向き
進むことだけです

もしかしたら

この日のために
あなたは
わたしを選んで下さったのかもしれない

自分が斃れた後も
自分の目指した夢を継ぐ者

それを
わたしだとおっしゃるなら

答えてみせましょう

もう振り返りはしない
泣き言も言わない

わたしは駆け続けます

力尽き大地に帰るその日まで
次なる者に夢を引き継ぐまで

あなたの名を記した旗を
天に向かって振り続けます

これからわたしの成すことを
見守り下さいますよう

あの頃のように
頷いてくださいますよう

そしていつかもう一度
彼岸にて相まみえる時が来ましたら

よくやったと
笑って下さいますでしょうか

その日まで

どうか
やすらかに

どうか
わが君主(きみ)……




◆◇「別涙」によせて◇◆

白帝城での、劉備と孔明の最後の別れの場面を詠った「別涙」。
「翠蓮茶寮」のカウンタ3000ゲットで、翠蓮さんに書いていただきました。

白帝城といえば、昔見た「人形劇三国志」が忘れられません。
死期を悟った劉備が孔明に後事を託すという、あの有名なシーンです。
しかし、ここでの孔明は「演義」のように、遺詔を受けてその場に感泣したりはせず、あくまでも冷静に(森本レオさんのあの声で)、「さあ、殿、もうお休みなされませ」などと穏やかに言って退出するのですが…。
一人になって初めて孔明は、雷雨の中、思いっ切り泣き崩れるんですね。
それまで、いつも冷静で、時には冷酷過ぎる印象さえ受けた孔明ですが、この時ばかりは、誰はばかることなく、抑えきれない感情の爆発に身をまかせてしまいます。
いかに劉備が孔明にとってかけがえのない存在であったか、それとともに、孔明がどれほど劉備のことを好きだったかを、とても雄弁に表現していて、魂の底から絞り出されるような、呻きとも咆哮ともつかぬ痛哭が、見ている私たちにも辛かったのを覚えています。


孔明という人は、本当に劉備のことが好きだったのでしょうね。
もちろん、関羽や張飛のように義兄弟というような馴れ馴れしい関係ではなかったけれど。それでも、君主と臣下という立場を超えた、もっと深くて強い結びつきがあったのでしょう。
それはある意味、劉備玄徳という人の偉大さでもあるのですが、「この人のためなら、すべてをなげうってもいい」と思わせるだけの魅力ある人物だったにちがいありません。
劉備を失った日から、孔明の長く孤独な戦いの日々が始まります。




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